1913年と2017年の行動主義

客観的に観察できるものの拡張

すでに述べたように,ワトソンが目指した心理学は客観的な自然科学としての心理学だ。客観的。客観的って何だろう。客観的であることを追い求め,ワトソンは内観によってのみ観察されるもの,客観的でないものを取り除こうとした。客観的でないもの。主観的なもの? ここでいう主観と客観を分けているものは,第三者が観察することが可能かどうかだ。

この原稿を書いている僕が何を考えているのかを,あなたは知ることができない。しかし,何を書いているのかは観察できる。ビデオ撮影すればどの指でどのキーを押したか,センサを使えばどれくらいの強さでキーを押したかなどは測定し,観察することができる。これらはワトソンのいう行動の科学の対象である。一方で,僕がこの原稿を書きながら何を考えているのか,行動主義について深く思い悩んでいるのか,あるいは子どもを迎えに行く時間を気にしているのかは,知ることができない。これは行動の科学の対象とはなりえない。僕しか正解を知らないからだ。この,行動の科学の対象となりうるかどうか,つまり「第三者が観察することが可能かどうか」を決めているものは,じつはとても単純なもので,測定するための技術が存在するかどうか,そしてその測定結果について,完璧ではないにせよある程度納得のいく精度での答え合わせができるかということだ。

神経科学,特に人間や動物のさまざまな心的機能の神経基盤を調べる認知神経科学(認知!)や行動神経科学(行動!)などでは,fMRIをはじめとする脳機能画像診断や,光遺伝学といった手法による神経回路の直接的な操作などの技術的進展を受け,さまざまな知見が積み重なっている。こうした技術は,観察できるものを拡張し,答え合わせのできる範囲を広げている。客観的に扱えるものが技術の進歩によって拡張されることで,「客観的に観察可能なものを研究対象とする」というワトソンの主張は,「当たり前だろう」という認識をもちつつ,前向きなものとして受け入れることが可能になるのだろう。

ワトソンの行動主義は,本来みんなが知りたいことを放棄することで自然科学としての心理学の足場を固めた,という見方は,たしかにある面では正しいかもしれない。しかしそれは,その当時の技術水準があってのことだ。主観と客観の区分はそう簡単には動かないかもしれないが(これを動かす,というよりも区分をなくしてしまうというのがスキナーによる徹底的行動主義であるといえる),観察できないものとできるものの区分はどんどん変化している。ワトソンの行動主義が掲げたものと,みんなが知りたいことの間を分けていたものは,時代とともに変わる。ワトソンの時代の行動主義と,「MRI時代の行動主義」は,その根本は同じであっても,見せてくれる世界はまるで違う。100年後にはまた,違う世界が見えるはずだ。

すごいけど古い? いやいや,「古いけどすごい」の方がいいかな。

J. B. ワトソン著,安田一郎訳
ちとせプレス (2017/5/15)

行動主義は,なぜ心理学を席巻したのか? ワトソンが提起した問題とは? 1910年代に行動主義を提唱して心理学に旋風を巻き起こし,37歳の若さでアメリカ心理学会の会長に選出されたワトソンの代表作。情動,発達,言語,記憶,思考やパーソナリティーなど,人間心理の諸側面を,行動の科学的な分析から探究する道筋を示し,その後の心理学に多大な影響を与えた「行動主義宣言」とはいかなるものなのか。いま読んでおきたい心理学の古典的名著,待望の復刊! 新しい組版で読みやすく。

文献・注

(1) ワトソン,J. B.(安田一郎訳)(2017).『行動主義の心理学』ちとせプレス

(2) ワトソン,J. B.(安田一郎訳)(1980).『行動主義の心理学』河出書房新社

(3) シンポジウム当日のツイッターまとめは以下を参照のこと。
行動主義誕生100周年記念シンポジウム@日本心理学会第77回大会(2013.09.19)

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