1913年と2017年の行動主義

行動主義が目指した心理学

行動主義に限らず,心理学において「ホニャララ主義」といったものについて考えることは,「心理学とはどういう学問か」について,そして「心理学という学問を通じて何が知りたいか」を考えることだ。ワトソンは,行動主義を通して心理学はどういう学問であるべきと考えたのだろうか。

答えは明確だ。物理学や化学と同じ意味での,自然科学であるべきだと考えた。わかる。わかります。哲学は万学の母と言われるが,心理学はその末っ子のようなものであり,物理学や化学といったお兄さんお姉さんに憧れや嫉妬の入り混じった複雑な感情を,21世紀のいまに至るまで引きずっている。

ワトソンが心理学を自然科学として組みなおすためには,ヴント心理学における重要な方法論であった「内観」は排除されなければならなかった。内観によって観察されるのは研究参加者の内的経験であり,それを観察できるのは研究参加者だけである。その妥当性は,客観的には担保できない。内観によってのみ研究が可能なものは,自然科学の対象とはなりえないというわけだ。そこでワトソンは,心理学を客観的に観察が可能な行動の科学であると考えて全体を組みなおそうとした。それは心理学が自然科学の一員となるための,1つのステップであった。

その一方で,われわれは,心理学という学問を通じて何が知りたいのだろうか。この答えも明確だろう。多くの人はこう答える。「心のことが知りたい」と。わかる。わかります。心という言葉が入っている学問なのだから,心について扱うものだと考えるのはいたって普通である。しかし,ワトソンによれば,心とは,あるいは意識やイメージといったものは,内観によって検証されるものであり,自然科学としての心理学,行動の科学の中には居場所のないものとなってしまう。それは心理学の,行動の科学の研究対象ではないのだ。客観的に研究することができない,という理由によって。

なるほど,つまり「学生や聴衆の反応が悪い」のは,ワトソン流の行動主義が指し示す心理学の在り方は,多くの人が本当に知りたいと思っていることに対して答えを与えてくれるものではない,というわけだ。自然科学として,客観科学としての立場を重視するために,解くべき問題の設定を変えたせいで,行動主義は「学生や聴衆の反応が悪い」のかもしれない。うーん。

ここで,先の神経科学者のコメントを思い出していただきたい。「だって当たり前のことでしょう,行動主義の主張って」。当たり前のこと。ふむ。心理学に興味をもつ人たちの間でイマイチ受けない行動主義は,全員ではないにせよ神経科学者の目には「当たり前」のことに見えるのか。わからない。とっさにはわからない。ワトソンが重視した古典的条件づけの発見者イワン・パブロフは医師であり,生理学者であった。「大脳両半球の働きについての講義」という講義録のタイトルや内容からもわかるように,その研究は心理学ではなくむしろ生理学,神経科学だった。ワトソンの目には,そうした分野はそれまでの心理学よりずっと自然科学的な学問と映っただろう。神経科学者の目に,「行動主義の主張は当然のことである」と映ったとすれば,ワトソンは本望だったかもしれない。

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