社会は心の健康にどう取り組むべきか?(4)

『心理療法がひらく未来』監訳者あとがきより

経済学者のリチャード・レイヤードと臨床心理学者のデイヴィッド・M. クラークの共著による『心理療法がひらく未来――エビデンスにもとづく幸福改革』が刊行されました。イギリスでは,治療効果の高い心理療法を多くの人に提供しようと心理療法アクセス改善(IAPT)政策が進められています。その概要と背景,そして日本への示唆について,監訳された丹野義彦教授が解説します。最終回はセラピストの養成システム,そして公認心理師と今後の課題について。(編集部)

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丹野義彦(たんの・よしひこ)
東京大学大学院総合文化研究科教授。東京大学大学院心理学専攻修了,群馬大学大学院医学研究科修了(医学博士)。著書に,『講座臨床心理学(全6巻)』(東京大学出版会,共編著),『叢書 実証にもとづく臨床心理学(全7巻)』(東京大学出版会,共編著),『臨床心理学』(有斐閣,共著),『認知行動アプローチと臨床心理学――イギリスに学んだこと』(金剛出版),『ロンドン こころの臨床ツアー』(星和書店),『イギリス こころの臨床ツアー』(星和書店)など。

8 科学的臨床心理学の養成システムと国家資格

8・1 IAPTのセラピストの養成

第3のパラダイムシフトは、専門職としての科学的臨床心理学の養成システムが確立したことである。欧米では科学者-実践家モデルにもとづいて訓練された心理士が国家資格をもって活躍するようになった。

第12章第1節に書かれているように、IAPTは2008年から2013年までの5年間で5000人のセラピストを養成した。1人のセラピストは1年の研修で養成された。このような短期大量養成が可能だったことに驚かされる。IAPTは低強度治療と高強度治療に分かれるが、前者の低強度治療のセラピストは、週1日は大学院で講義を受け、週4日は現場でスーパービジョン付きの実習を受けた。1方、高強度治療のセラピストは、週2日は大学院で講義を受け、週3日は現場でスーパービジョン付きの実習を受けた。研修中、低強度治療のセラピストは年300万円、高強度治療のセラピストは年500万円の給与が国から支払われた。公務員扱いであり、とても恵まれている。

IAPTではセラピストの質を保証することが何より重要だったため、かなり厳格で透明な手続きが採用された。多くの心理学系の大学院がセラピスト養成コースを設けたが、高強度治療セラピスト養成コースの認定基準は以下のように厳しいものであった(1)

① 研修生1人につき450時間の理論学習を提供できること。うち200時間は、イギリス認知行動療法学会認定のトレーナーによる対面式の教育であること。認知行動療法の基本、不安障害、うつ病という3つのモジュールを必ず含むこと。

② 研修生1人につきスーパービジョン付きのアセスメントないし心理療法を200時間以上提供できること。日誌を保存すること。

③ スーパーバイザーは、イギリス認知行動療法学会認定のセラピストないし認定スーパーバイザーでなければならない。どの事例についても、最低5時間以上、計70時間以上のスーパービジョンを受ける。

④ 研修生1人につき8事例のアセスメントないし心理療法を担当させることができること。各事例は5セッション以上とする。

研修の成果の判定は、客観的な方法でおこなわれた。つまり、心理療法の6セッションについては、認知療法尺度(CTS-R)を用いて客観的な評価をおこなわなければならない。

第12章冒頭に書かれているように、IAPTでの心理療法の結果はすべて測定されて、金額に見合う価値が得られているか評価された。システムについてすべては透明性をもっており、誰でもすべてのサービスの結果を知ることができる。これによって、第12章第2節に書かれているように、地区ごとに治療成績が異なるといった問題点も公開されている。

8・2 臨床心理士養成のパラダイムシフト

IAPTがモデルとしたのは、臨床心理士の養成大学院であった。クラークが臨床心理士であるからこれは当然である。IAPTの研修には看護師やソーシャルワーカーなども参加したが、中心となったのは心理士の卵であった。IAPTの短期大量養成が可能だったのは、臨床心理士養成の実績やノウハウが完成していたからである。

イギリスの臨床心理士の養成は、3年制の博士課程でおこなわれる。大学院生は、週2日は大学院で学習し、週3日は現場でスーパービジョン付きの実習を受ける。臨床心理士の活動は認知行動療法が基本である。研修の間、年300万円の給与が支払われる。このようにIAPTと似ている。

このような臨床心理士の養成システムは、以前にはなかったものであり、これが完成したことこそ第3のパラダイムシフトの中心をなしている。それまでのセラピスト養成は、精神分析療法に典型的に見られるように、私塾のような場所で、師から弟子へと技法が伝授されていた。師と弟子はクローズドな関係であり、密室のなかで養成がおこなわれた。精神分析をおこなう者は、まず自分が「教育分析」を受けなければならない。その技法が伝わったかどうかの判定は、免許皆伝のごとく、師の主観的な判断による。師は、臨床活動の片手間に教育をおこなうので、一度にとれる弟子の数は限られている。このようなシステムでは、とうていIAPTのような短期大量養成はできなかっただろう。

これに対して、臨床心理士の養成は、大学院や病院というオープンな場所でおこなわれる。大学院では養成のプロである教員が教育をおこなう。認知行動療法の技法は、秘伝のものではなく、マニュアルが公開されていて、第3者にも明快に理解できるようになっている。十分に共感性がある人が十分な訓練を受ければ誰でも実施できるようになった。病院でのスーパービジョンは、たしかに臨床活動の片手間におこなわれるが、以前のような密室のなかのクローズドなものではない。病院では研修生1人ひとりにスーパーバイザーがつき、研修生は、つねにスーパーバイザーの後について病院のなかを飛びまわり、あらゆる活動について観察学習する。さらに自分で事例を受けもち、自分でアセスメントをして、治療計画を立て、治療をする。技能を習得したかどうかの判定は客観的におこなわれる。つまり、担当した事例のなかから、4事例について論文を書き、それを博士論文に含めることが義務づけられている。臨床心理士の養成には国民保健サービス(NHS)の病院が全面協力しているので、イギリス全土で大量の養成も可能である。こうしたセラピスト養成面でのインフラストラクチャーが確立していたからこそ、IAPTでの短期大量養成が実現できたといえるだろう。


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