社会は心の健康にどう取り組むべきか?(1)

『心理療法がひらく未来』監訳者あとがきより

経済学者のリチャード・レイヤードと臨床心理学者のデイヴィッド・M. クラークの共著による『心理療法がひらく未来――エビデンスにもとづく幸福改革』が刊行されました。イギリスでは,治療効果の高い心理療法を多くの人に提供しようと心理療法アクセス改善(IAPT)政策が進められています。その概要と背景,そして日本への示唆について,監訳された丹野義彦教授が解説します。(編集部)

丹野義彦(たんの・よしひこ)
東京大学大学院総合文化研究科教授。東京大学大学院心理学専攻修了,群馬大学大学院医学研究科修了(医学博士)。著書に,『講座臨床心理学(全6巻)』(東京大学出版会,共編著),『叢書 実証にもとづく臨床心理学(全7巻)』(東京大学出版会,共編著),『臨床心理学』(有斐閣,共著),『認知行動アプローチと臨床心理学――イギリスに学んだこと』(金剛出版),『ロンドン こころの臨床ツアー』(星和書店),『イギリス こころの臨床ツアー』(星和書店)など。

本書は、リチャード・レイヤードとデイヴィッド・クラークが2014年に出版したThrive: the power of evidence-based psychological therapiesの全訳である。

1 心理療法アクセス改善政策

イギリス政府は、2008年に「心理療法アクセス改善」(Improving Access to Psychological Therapies: IATP)政策を実施した。うつ病や不安障害がイギリス国民の幸福度を下げており、その経済的損失も何兆円にもなる。「うつ病と不安障害には認知行動療法が効果がある」という科学的根拠(エビデンス)があるにもかかわらず、セラピスト不足のために、国民は心理療法を受けられない。そこで、希望する国民全員に心理療法を提供しようというIAPTが構想され、時の労働党ブレア政権が実行したのである。政府は5億ポンド(800億円)を投じて、5年間で5000人のセラピストを養成した。これにより、2008~2013年に、38万人が治療を受け、その46%が回復した。

本書は、IAPTについて、その提唱者であるレイヤードとクラークが解説したものである。日本では、2009年11月17日に『朝日新聞』が紹介した以外は、それほど紹介されてこなかった[★1]

日本の関係者から見ると、IAPTは驚くことばかりである。少し前ならば、このような政策はちょっと考えられないものであった。うつ病や不安障害が心理療法で治療できるなどとは、ほんの20年前までは誰も思わなかった。心理療法というものは、芸術文化や宗教と同じで、科学的根拠などあるわけがないと思っている人も多いかもしれない。その心理療法を、科学の国イギリスが国を挙げて大規模に実施するなどとは、少し前までには誰も思わなかっただろう。また、心理療法は、ただ薬物を処方すれば済むようなものではなく、長い時間と高い予算を使ってセラピストを養成しなくてはならないので、以前は一種の「ぜいたく品」であり、一部の裕福な人しか受けることができなかったものである。一時は「イギリス病」とまで呼ばれた財政難のイギリスが、心理療法のために何百億円も支出したことは驚きである。なお驚くべきことに、よく聞くと、この政策は政府の支出を減らすためのものだという。いったいこんなことが可能なのだろうか。しかも、たった5年間でセラピストを5000人も養成したというのも驚きである。また、IAPTのような政策がイギリス以外(たとえば日本)でも可能なのだろうか。こうした多くの謎や疑問を解き明かしてくれるのが本書である。

2 レイヤード卿と幸福の経済学

2・1 学者としては遅咲き

リチャード・レイヤードは、イギリスを代表する労働経済学者で、ロンドン大学経済学部(London School of Economics: LSE)の名誉教授である。上院議員を務め、男爵の称号をもっているが、その前半生を見ると、はじめからエリート経済学者の道を辿ったわけではない。レイヤードは1934年に生まれ、ケンブリッジ大学で歴史学を専攻した。卒業後は歴史の教師をしていたが、27歳のときに、ロビンス高等教育委員会の研究官となった。この委員会は、LSEの経済学者ライオネル・ロビンス卿を中心としたものである。ちなみに、ロビンスは、「ゆりかごから墓場まで」というイギリスの社会保障制度を立案した経済学者ベヴァリッジの弟子である(本書第1章第6節で触れられているように、イギリスで誰でも無料の医療が受けられるのはこの制度による)。1963年に、ロビンスは有名なロビンス報告を出して、イギリスの大学政策を拡張させた。第2次世界大戦後のイギリスでは、大学教育を受けたい若者が爆発的に増えたにもかかわらず、大学は24校しかなかった。これを改善するために、ロビンス報告は大学の増設を提言した。これによって7校の「新構想大学」がつくられ、また、理工系の学校が大学に昇格し、1970年代には大学数は45校に増えた。「新構想大学」は、世界的な動きとなり、1960~70年代には多くの国で大学が新設された。その特徴は、大都市のなかではなく、郊外に大きなキャンパスをつくった点である。日本でも1973年にできた筑波大学(母体は東京教育大学)はイギリスの「新構想大学」をモデルとしたものである。

ロビンスはLSEのなかに高等教育研究ユニットをつくったが、レイヤードの能力を見抜いて副主任に抜擢した。レイヤード30歳のときであった。彼は、31歳でLSEに入学し、パートタイムで経済学を正式に学びはじめ、34歳で経済学の修士号をとった。学者としては遅咲きといえるだろう。その後は多くの業績を挙げて、34歳でLSEの講師となり、46歳で教授となった。1999年の定年後は、名誉教授となり、LSEに併設された経済動向センターのセンター長を務めている。2000年には上院議員となり、一代かぎりの男爵の爵位を与えられた。ちなみに、夫人のモリー・ミーチャーは、ソーシャルワーカーとして社会的に活動し、2006年には男爵の爵位を与えられた。夫婦がそれぞれ爵位をもっているのは珍しいことである。

レイヤードの専門は労働経済学であり、失業をいかに減らすか、不平等をいかに是正するかという問題をテーマとしている。これまで45冊以上の著書を出しており、邦訳されたものに、『ミクロ経済学――応用と演習』(荒憲治郎監訳、創文社、1982年、共著)と『ロシアは甦る――資本主義大国への道』(田川憲二郎訳、三田出版会、1997年、共著)がある。

2・2 幸福の経済学

最近ではレイヤードは「幸福の経済学」の提唱者として知られる。幸福は主観的なものではあるが、客観的に幸福の社会学的要因を分析することもできる。2005年に出版した『幸福――新しい科学からのレッスン』(未邦訳)という本は世界20カ国で翻訳されたが、そのなかでレイヤードは、実証研究にもとづいて、幸福に影響をもたらす要因として、7つを挙げ、ビッグ・セブンと呼んでいる。すなわち、①家族関係、②家計の状況、③雇用状況、④コミュニティと友人、⑤健康、⑥個人の自由、⑦個人の価値観である。このうち⑤の健康、とくに心の健康を扱ったのが本書である。

本書の第15章第6節にも書かれているように、政府というものは、国民の収入を増やすだけではだめであり、国民の幸福を増やし、不幸を減らすことを最終目標としなくてはならない。国民の不幸を減らすための政策がまさにIAPTである。

第5章の表5-1にあるように、多くの国での調査によると、「生活満足度」を説明する最大の要因は「精神疾患がないこと」であって、身体疾患や貧困や失業などよりも大きな説明力があった。つまり、人々の生活満足度(幸福度)を上げるために、精神疾患のケアをこそもっとも重視しなければならない。そして、幸福度を上げるためには、身体疾患を扱う医師よりも、貧困や失業をなくそうとするエコノミストよりも、何より心理療法をおこなう心理士の活動が期待されているわけである。われわれ心理士は、自分たちの仕事にもっと社会的使命感をもつべきである。本書が幸福の経済学のレイヤードと、臨床心理学者のクラークの共著であることにはそうした意味がある。


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