社会は心の健康にどう取り組むべきか?(2)

『心理療法がひらく未来』監訳者あとがきより

経済学者のリチャード・レイヤードと臨床心理学者のデイヴィッド・M. クラークの共著による『心理療法がひらく未来――エビデンスにもとづく幸福改革』が刊行されました。イギリスでは,治療効果の高い心理療法を多くの人に提供しようと心理療法アクセス改善(IAPT)政策が進められています。その概要と背景,そして日本への示唆について,監訳された丹野義彦教授が解説します。第2回は2人の出会いからIAPTの実施へ,そしてその背景にあった3つのパラダイムシフトについて。(編集部)

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丹野義彦(たんの・よしひこ)
東京大学大学院総合文化研究科教授。東京大学大学院心理学専攻修了,群馬大学大学院医学研究科修了(医学博士)。著書に,『講座臨床心理学(全6巻)』(東京大学出版会,共編著),『叢書 実証にもとづく臨床心理学(全7巻)』(東京大学出版会,共編著),『臨床心理学』(有斐閣,共著),『認知行動アプローチと臨床心理学――イギリスに学んだこと』(金剛出版),『ロンドン こころの臨床ツアー』(星和書店),『イギリス こころの臨床ツアー』(星和書店)など。

4 2人の出会いからIAPTへ

4・1 レイヤードとクラークの出会い

2人はともにロンドン大学の教員であったが、専門領域がまったく違う2人が出会ったのは偶然のことであった。2人はイギリス学士院(ブリティッシュ・アカデミー)に所属していたが、その会合で、2004年にたまたま隣り合わせになった。レイヤードが「私はハピネスの研究をしている」と自己紹介すると、クラークは「私はアンハッピーと感じている人々に心理療法を提供する研究をしている」と答えた。2人はそれぞれの研究について紹介するうちに、意気投合し、IAPTの構想を練った。

4・2 メンタルヘルス――イギリス最大の社会問題?

レイヤードは、クラークとの議論をまとめて、2005年に、「メンタルヘルス――イギリス最大の社会問題?」という提言を書いて、トニー・ブレア首相に送った。そこでは、うつ病や不安障害などの精神疾患によって多額の経済的損失があること、精神疾患に対して認知行動療法が治療効果があるという科学的根拠があること、認知行動療法によってうつ病や不安障害が治療されれば、経済的損失がなくなり、差し引くと、認知行動療法の費用を上まわる利益があること、などを主張していた。

第6章の表6-1に示されるように、精神疾患による経済的損失は、イギリスの歳入の7%に及ぶと推定される。イギリスの歳入はおよそ6500億ポンド(約100兆円)であるから、損失は450億ポンド(7兆円)ということになる。これだけの損失なのに、精神医療には歳入の1%(1兆円)しかかけていない。これは不合理なことであり、もっと精神医療にお金をかけるべきだと彼らは主張する。

精神疾患をお金の損失として換算するという経済学の考え方に、少し抵抗がある方もおられるかもしれない。精神疾患の苦痛を金額で表すことなどはできない。しかし、IAPTを実施するためには莫大な国家予算を必要とするので、その政策がはたして「費用対効果」に見合うものなのかを調べなければならない。IAPTでは、たとえ莫大な予算を使ったとしても、それによって休職者が減り、障害給付金など社会保障費の支出を減らせる。大金を払っても「おつりが来る」とわかったので、政府はお金を出したのである。福祉を実行するために、あえてうつ病や不安障害の損失をお金に換算したのである。

また、精神疾患を、休職による損失や障害給付金に結びつけて換算することにも抵抗がある方もおられるかしれない。しかし、第12章第4節で述べられているように、IAPTは、うつ病や不安障害の苦痛から人々を救うための政策であり、人をもっと働かせるための政策などではない。うつ病や不安障害によって働きたくても働けない状態にあるよりも、うつ病や不安障害を脱して、働ける自由を回復しようというのがIAPTである。


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