現象としての社交不安(4)

現象が現象であるために――病理を超えて

病理視への2つの傾向

この2つを私なりに比較すると,クライエントはどちらの場合も,現象を病理視,つまり病気として見ようとしています。前者は専門家の言葉を受け入れることで,自分の現象を病理視しています。後者は,クライエントからの病理視です。つまり,専門家から正常だと言われても,クライエントの方が病気であると信じたり,あるいは病気として認めてほしかったりという心の動きがあるわけです。

これらのことを要約するならば,専門家が病気と認定し,それを受け入れるならばそのまま現象の病理視につながりますし,他方,専門家からのノーマライズがうまくいかなかったり,いったんうまくいったとしてもやはりこの現象が自分にあることが普通だと思えなかったりする場合は病理視につながるわけです。つまり,専門家の言説は病理視へのきっかけとなりやすいように思えてきます。専門家の言葉あるいは専門化された言葉が,非専門家であるクライエントにとっての「正常」と「異常」の距離を広げてしまうのでは……などと私は危惧します。

このような病理視への傾向を日頃から疑問に感じていると,本当にその現象が病気かどうかという問題とその現象を病気と認識するかどうかという問題は異なるように思えるので,クライエントが専門家から病気と認定されて否認する態度をもったとしても,「まあそう思うのも無理はないだろうなあ」とわりと納得できます。障害をむやみに受容させようとする傾向についての,当事者やその家族からの意見については田島明子の著作(9)に詳しいです。援助者やそれを志望する人は必読だと思います。

ただし,「病気ですよ」を信じる心も,「病気ではありませんよ」を信じる心も,クライエントの中には両方あるはずです。そして時折この2つの間を,専門家の心も揺れ動いていきます。

現象への病理視と対応の担い手

「病気ですよ」というスタンスですと,専門家が責任をもって対応しますよ,という流れなので専門家にお任せする感じでしょうし,「病気ではないですよ」というスタンスですと,これは「普通」のことなので,一緒に工夫をしていきましょう,あるいはご自分で工夫していきましょうね,という流れにつながりやすいように思います。

自分のもっている現象を病気とするかどうかという問題は,自分の現象を自分でどうしたいのか,誰が主にその担い手になるのか,という点にもつながる話だと思います。人間は体の持病や体質を1つや2つもっていてもおかしいことではなく,それは心の面でもいえることですが,自分のもっている現象を何とかしたくなった場合,それを専門家に完全にお任せするなら,その専門家の病理観を受け入れる流れになることでしょう。

他方,安易に病気にされたくないというのであれば,ある程度自分が自分を動かしていく責任を受け取ることになるでしょう。言い換えれば,自分の中で何を問題とするのかを自分で決めていく態度だと思います。この点,認知行動療法は自分が自分を動かしていく担い手になろうとするのを手助けする心理療法の1つです。自分で自分の問題を何とかしたい,自分のために何かをしよう,というスタンスに立つならば,自分のもっている現象が病理であるかどうかという点とは少し違う次元に立っているといえるのではないでしょうか。

治療技法の発展と責任性

診断基準ができ,研究が発展し,治療法ができる。効果を高めるための研究がきっかけとなり,さらに治療効果が高まる,という流れを繰り返しているのが,実証に基づく臨床心理学の形だと思います。これはこれで望ましいことですが,近年のようにその外側での情報の広まりが過熱しすぎてしまうと,クライエントの責任性が出てくるという難しい面もでてくるかもしれません。

例えば,私は保育園に5歳と3歳の子どもを通わせていますが,今の冬の時期はやはりインフルエンザが蔓延します。小さい子どもには2回のワクチンを打つことによって,インフルエンザの予防をすることができるという言説が伝わってきますし,私自身もワクチンを打つ選択をしています。この情報は,ある意味,子どもをもつ親としては常識なのかもしれませんが,今のところ私の園ではワクチンを打つかどうかはまちまちのようです。ただし,そこに一斉に専門家から情報が報じられたとしたらどうでしょうか。ワクチンを打ちにいかないことが,他者に迷惑をかけるよくないことでもあるかのように,保護者の意識が変わっていくことも考えられます。

保育園に関してはおそらく,10年もすればそのような時代が到来するのではないかと予感しますが,精神科的なことではどうでしょうか。例えば,うつ病に関していうと,疲れ果てたクライエント予備群の方々に対して,心療内科に行って元気になればいいじゃないかという,心ないまなざしが注がれていることも珍しくありません。社交不安症の治療研究がもっと進み,その情報が広く周知されたとしたら,大事な商談の前なのに内気なままの人に対して,どのようなまなざしが注がれるでしょうか。コンテンツの作成と提供は臨床心理学においても大切なことですが,情報が人に対してどのように影響を与えるのかという視点や,その結果,現象が病気になりすぎてしまわないか,それを防ぐにはどうすべきかという視点も,今後の臨床心理学には必要であるように感じています。

最後に――Other neglected aspects?

この4回の連載の中で,社交不安をはじめから症状と考えるのではなく,ひとまず現象として考えることの意義について触れてきたつもりです。2015年という年はLiebowitz博士の提言から30年という大きなメモリアル・イヤーであり,その間に大きく社交不安症の世界は広がりました。これから10年でどのような展開があるのでしょうか。私個人は,前回の対人恐怖症の研究の発展を始めとして,発達障害やパーソナリティ障害など,ある程度安定的な要因も加味した研究があると,より援助にも使いやすくなるように感じています。

次の10年間で,どのような進展があるのか。ぜひ興味のある方は参戦してもらえたらと思います。

(連載終了)

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文献・注

(1) American Psychiatric Association (1980). Diagnostic and statistical manual of mental disorders (3rd ed.). American Psychiatric Association.

(2) Liebowitz, M. R., Gorman, J. M., Fyer, A. J., & Klein, D. F. (1985). Social phobia: Review of a neglected anxiety disorder. Archives of General Psychiatry, 42, 729-736.

(3) Marshall, J. R. (1993). Social phobia: An overview of treatment strategies. Journal of Clinical Psychiatry, 54, 165-171.

(4) Weeks, J. W. (Ed.) (2014). The Wiley Blackwell handbook of social anxiety disorder. Wiley-Blackwell.

(5) Clark, D. M., & Wells, A. (1995). A cognitive model of social phobia. In R. G. Heimberg, M. R. Liebowitz, D. A. Hope & F. R. Schneier (Eds.), Social phobia: Diagnosis, assessment, and treatment. Guilford Press. pp. 69-93.

(6) Rapee, R. M., & Heimberg, R. G. (1997). A cognitive-behavioral model of anxiety in social phobia. Behavior Research and Therapy, 35(8), 741-756.

(7) アメリカ心理学会臨床心理学部会(第12部会)による「研究によって支持された心理学的治療」(Research-Supported Psychological Treatments)

(8) レーン, C.(寺西のぶ子訳) (2009).『乱造される心の病』河出書房新社

(9) 田島明子編 (2015).『障害受容からの自由――あなたのあるがままに』シービーアール


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