現象としての社交不安(4)

現象が現象であるために――病理を超えて

現象に関する情報の発信の功罪

しかし,この急速な研究の増加はいったいどうしたことなのでしょうか。この点には以前から興味があり,第3回で紹介したKirmayer教授に少し意見を聞いてみたことがあります。彼いわく,今は病院であるがそれまではおそらくは学生相談やカウンセリング・センターなどに来談していたのではないだろうかと言われ,納得した覚えがあります。以前から現象としては存在していた,しかし医学の対象ではなかった,というのは可能性がある答えではないでしょうか。つまり,DSMが現れることによって,それまで存在していた現象に対する意味づけが変化したわけです。

必要な人に良質の援助を提供すること――これは個人にとっても,その人を取り巻く人たちにとっても,おおげさにいえば社会にとっても大変重要な事柄です。適切な援助にたどりついてもらうためには,現象に関する情報を発信し,その援助法に希望をもってもらうことが第一に大切です。インターネットをざっと見てみても,社交不安症に関する情報には簡単にアクセスすることができるようになりました。社交不安症だけでなく,さまざまな精神疾患についてDSMの日本語版の診断基準を見ることができますし,どのような治療法がありうるのかについても解説されています(もちろん発信者がちゃんとした専門家であるかどうかは見分けなければなりませんが)。昔とは比べ物にならないぐらいの判断材料があるのは幸福な時代だと思います。

しかし近年は,社交不安症に悩む人が気になる書き込みを行うことも増えているように感じます。例えば,診断基準を見たらばっちりあてはまっていて落ち込んだ……という趣旨の書き込みです。自分は病気である,どうしようもない,という,かなり強い自己否定感が伝わってくることも多いのです。

たしかにインターネットの普及などの社会の変化は著しかったですが,人間の本質的な部分はそれほどまでに急激に変化するものなのでしょうか。診断基準や疾患についての情報が広まることによって,以前から自分の中に現象としては存在しつつも,気にならなかったとか,それほど害があるとも思わなかったものが,何かの情報を機に気になるようになった,害のあるように感じられるようになったとすれば,あまり好ましいことではないかもしれません。不安を感じた人が必ず相談機関を来談してくださるなら,治療者から「大丈夫ですよ」と安心してもらえるのですが,だいたいの人は相談機関には行かず,不安の中で取り残されてしまいます。インターネットでのやりとりを見ると,不安をむやみに強めすぎないように有益な情報を伝えるにはどうしたらよいのか,それを今問われているように痛感します。正しいことを伝えるのだ,というのは一種の正義心ですが,どこかで誰かにため息をつかせているかも……と思い浮かべてみるデリカシーも,正義心のパートナーとして必要なのかもしれません。

病気ですよというメッセージ

さて,それなら専門家からどのように情報を広めればよいでしょうか。私見ですが,さまざまな専門家からの情報を見ていると,だいたい2つの方向性の伝え方があるようです。

1つは,「これは病気です」というメッセージです。一昔前ですが社交不安症にはキャンペーンがはられていることは珍しくありませんでした。それは性格ではありませんよ,病気なんですよ,でも治すことができますよ,というメッセージです。ちなみに,こうしたキャンペーンへの意見として,ノースウェスタン大学のC. Lane教授はまとまった意見(8)を表しています。このメッセージがもつ方向性の是非を判定するのは難しいのですが,私個人の立場から言うなら,こうしたキャンペーンの結果,クライエントが治療につながって,クライエントの希望する人生に近づけるのであれば,よいきっかけになるのだと思います。

「私はこの内気な性格で長いこと悩んできた……」という人が,それは性格ではなく病気かもしれませんよと専門家から言われ,気持ちが楽になるということはよくあります。それは心の底からの,正直な感想なのだと思います。実は病気のせいだった,自分が悪いわけではなかった,という結論につながるので,専門用語を使うのであれば,問題が自分の外に出て,「外在化」されたということができます。

ただし,病気ですよというメッセージは,それほど必要性のない人でも医療に巻き込む危険性をはらみます。ですので,これは一般人口のうち,病的なレベルの高い人を救うことを目的としたメッセージといえるでしょう。

病気ではありませんよというメッセージ

もう1つありうるのは,「これは病気ではありません」というメッセージです。あるいは「誰にでもある現象である」というメッセージとも言い換えられるでしょう。「正常な機能の反映です」とか「適応へ向かおうとする心の裏返しである」というメッセージの親戚ともいえるスタンスです。これもこれで理に適っているように思えるし,何でもかんでも病気にしないという意味で,配慮のあるメッセージだと思います。

でも,あまりにしんどいときにこれが耳に入るとしたらどうでしょうか。病気ではないよ,誰にもある現象だよ,というところから転じて,人生とはこのようにしんどいものだ,これが普通のことだ,というメッセージとして聞こえてくるとしても不思議ではありません。ですので,今感じているしんどさを「普通のこと」「誰でも経験していること」と信じる準備がない場合は,このメッセージに拒否感を感じてしまうかもしれません。これも心の底からの正直な感想なはずです。

マイルドにゆっくり伝える限りはこのメッセージはそれほど拒否感を呼び起さないかもしれません。しかし,「病気ではありませんよ」というメッセージがクライエントに受け入れづらい場合,病気ではなく「普通」の範疇に収めようとする親切心からの言葉とはいえ,クライエントからしてみれば,自分の苦悩を重大なこととして扱ってもらえていないように感じることもよくあります。その由来からいうと全部が病気というわけではないとしても,機能レベルが下がっていくとしたら医療的援助の範疇にもなるわけですから,あまり普通普通と宣伝するばかりだと,救えるはずの人を救えない,という結果にもなりかねません。


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