あなたは障害者をどう思いますか?――身近な問題としての偏見や差別(1)

ここには2つの特徴が隠れている。1つは,「自分であれば」という視点が抜けているという点である。障害者はあくまで「障害者」であり,私と重ねて考えないという自己からの分離意識である。もう1つはネガティブな意図が明確でない場合は差別と見なされにくいという点である。配慮という排除や,隠されたり無自覚だったりするような偏見にはセンサーが反応しづらいようだ。ちなみに,質問に挙げられている例は2016年4月から施行された障害者差別解消法における合理的配慮の否定という差別にあたる。

現代においても,障害者に向けられた嫌悪や攻撃,無視が皆無となったわけではないが,より身近にあるのはもっと曖昧な差別である。偏見を実証するためには,現代の差別と同様,見えない偏見に目を向ける必要があるだろう。

しかし,障害者の印象を尋ねるアンケートを実施しても,ネガティブな態度が表れてこなかったり,「あたたかい」「努力家」といったイメージが表れたりすることもある。

その一方で,「世の中には障害がある人に対して,障害を理由とする差別や偏見があると思うか」という質問に対しては,9割が差別は「ある」と回答した(図2)。

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図2 社会における障害者差別の存在(4)

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このような矛盾をどうとらえればよいのだろうか?

私たちは,自分に都合よくできている。紀元前後に生きた思想家・セネカは「我々は目の中に他人の欠点を,背中に自分の欠点をもつ」という言葉を残した。私たちは,他人の欠点は見えるところに,自分の欠点は見えないところにおく。他人が行う偏見や差別であれば簡単に批判することができる。隔離政策や分離教育を定めた政治が悪い,虐待が起きれば施設が悪い,いじめが起きれば学校が悪い,パワハラが起きれば会社が悪い,事件が起きれば当事者が悪いと結びつけがちである。そうすると,「自分はそんなことをしない人間だ」と確認できる。

しかし,ある特定の人たちを社会の外側へ追いやっているのは誰なのだろうか? 唯一で最後の受け皿となった場で起きた悲しい出来事を単純に批判できるだろうか。

相模原事件が起きたとき,容疑者の思想に見られる差別と異常性に注目が集まった。私たちは事件に対して恐怖を感じることなく,「障害者差別」としてとらえ,その原因を容疑者に求めた。彼も「私たち」から排除された。

自分に潜む差別に目を向け,望ましくない自己と向き合うことができるだろうか。それを先延ばしにした先に,あの事件はあるのかもしれない。

次回の記事では,「見えない」また「見たくない」自己の偏見と向き合うために,自身の心を「見える」ようにする1つの実験方法をご紹介したいと思う。

→第2回に続く(近日掲載予定)

文献・注

(1) ここでは,「障害」という言葉を医学・心理学的指標に基づく定義(いわゆる医学モデル)として使用する。代表的な障害としては,知的障害,精神障害(発達障害含む),肢体不自由,聴覚障害,視覚障害,病弱,内部障害などを指す。

(2) 故ステラ・ヤング氏は,障害者を感動させるための対象とすることを「感動ポルノ」と名づけた。
ステラ・ヤング「私は皆さんの感動の対象ではありません,どうぞよろしく」(TED)

(3) 平成24年度内閣府世論調査(障害者に関する世論調査)より。

(4) (3)を参照。


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