あなたは障害者をどう思いますか?――身近な問題としての偏見や差別(1)

障害者が健常者のつくる「らしさ」や「あるべき」姿にあてはまっているときには,私たちは文句を言わず,あたたかなまなざしを向ける。障害のある子どもが特別支援学校・学級に通っているぶんには,障害のある人が真面目に働き,慎ましやかな生活をしているぶんには,障害に負けずに頑張っている「感動ポルノ」(2)を見せてくれるぶんには。

一方,普通学級で学びたい,部屋を借りて自立生活をしたい,結婚したい,プロレスに出たい,障害年金でパチンコに行きたい……障害者がそう主張・行動すれば,途端に批判や非難の声が挙がる。地域の普通学級への就学を希望したある家族は,2年以上前から準備をしなければならず,「エゴだ」「特別支援学校へ行け」と誹謗中傷を浴びせられた。就学後も保護者は学校へ付き添い,ことあるごとに説明を求められ,生活を変えざるをえなくなった。施設を出て地域で暮らしたいと願ったある身体障害者は,「やっていけるはずがない」「こんなこともできないのに」と施設職員や家族の反対にあい,行政の交渉ものらりくらりとかわされ,5年経っても実現できなかった。

障害者の前には,「障害者専用」の道路が敷かれており,その道はそれなりに整備されているものの,なかなか障害のない人たちとは交差しない。障害者に対する偏見・差別は,障害者を「見えない」「見えなくさせている」という形で身近に存在しているのだ。そして,障害者が社会に参加しようと見えるようになったとき,障害のない「私たち」と交差しないよう,排除や拒否が起こる。

差別へつながる偏見を実証するには

現代の障害者への差別はとらえにくいものとなっている。なぜなら,そもそも「見えない」のに加え,必ずしも悪意に満ちているわけではないからである。障害者と健常者の分離について,「障害に応じた支援を受けられる方がいいのではないか」「一緒にいるといじめられるかもしれない」「安全面のことを考えると,専門的なことをわかっている人がいた方がよいのでは」という意見は障害者への配慮をうかがわせる。

しかし,あなたが車椅子ユーザーであるとき,受験で段差のない学校の中から選ばなければならないとき,どう思うだろうか。あなたが全盲である場合,配布が印刷物のみであった場合,どう感じるだろうか。あなたが手話を使う場合,音声のみの講演会やグループでの会話の中にいるとき,どう感じるだろうか。ちょっとした工夫(例えば,板の設置や周囲の人が車椅子を上げる,印刷物を読み上げる人がいる,ノートでの会話や手話を教えてもらう等)がある場合とない場合では,不便さはもちろん,その人の人生を大きく左右する。

しかし,これらは差別とはとらえられにくい。平成24年に実施された世論調査で「障害のある人とない人が同じように生活するためには,生活するために不便さを取り除く,例えば,商店の入り口などのスロープの整備や点字ブロックや音声案内など,いろいろな配慮や工夫が必要になることがあるが,こうした配慮や工夫を行わないことが『障害を理由とする差別』に当たる場合があると思うか」と聞いたところ,差別と答えたのは5割に満たなかった(図1)。

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図1 社会的な障壁に対する差別の意識(3)


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