歴史的・社会的文脈の中で心理学をとらえる(3)

現在の心理学を大きな歴史的・社会的文脈の中で見ていくと、何が浮かび上がってくるのか。帯広畜産大学の渡邊芳之教授と早稲田大学の小塩真司教授による対談の第3回(最終回)。学問に政治・倫理はどのように影響するのか。心理学は科学を目指すべきなのか。今後の心理学を考えるために。(編集部)

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科学と政治・倫理

Author_WatanabeYoshiyuki渡邊芳之(わたなべ・よしゆき):帯広畜産大学人間科学研究部門教授。主要著作・論文に、『性格とはなんだったのか――心理学と日常概念』(新曜社、2010年)、『心理学方法論』(朝倉書店、2007年、編著)、 『心理学・入門――心理学はこんなに面白い』(有斐閣、2011年、共著)など。→webサイト、→twitter: @ynabe39

渡邊芳之(以下、渡邊):そうそう、再現性の問題って一貫性問題と同じことだと気がついてからすごくわかってさ、同じなの。再現性の問題も、きっとみんな言い出すよ、3割でいいって。30%で何が悪いんだって。ミシェルは性格の一貫性の問題に関して、そもそもパーソナリティは30%ぐらいのものだ、と言っちゃったわけだ。今回の再現性の話も、そもそも社会心理学の実験なんてそんなもんだ、と。これは冗談で言っているんじゃなくて、本当にそもそも社会的行動を実験場面で調べることがどういうことなのか。社会心理学の黄金時代の実験の意味って何だったのかと。それは端的に言って、少なくとも一度はこういうことが起きた、それもそれなりにコントロールされた状況で人為的にそういう現象を引き起こすことに成功した、そしてそれが客観的に記録されたということ。

再現性が30%だとして、100年の歴史の中で3割の確率でそれが起きたら大変なことだ。ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺の再現性がどのくらいかという話だよ。真面目にさ。21世紀ももう二十何年経っているけど100年の間にナチス・ドイツの虐殺みたいなことが30%くらいの確率で再現しますよ、となると、オイオイどうするんだ、ということになるじゃない。

これもさっきの話とつながるわけで、ミルグラム(1)もそうだしアッシュ(2)もそうだし、あの時代のユダヤの血を引いている心理学者たちは、こういうこと人間ってときどきやるんだぞ、またやるぞ、って言いたいわけだ。最初にイデオロギーがあるわけです。特にあの頃のアッシュがいたニューヨーク市立大学だとかは、ドイツから逃げてきた学者を雇って作った大学で、そこでそういう研究がされた。ミルグラムはアッシュの弟子だからアッシュに直接習っている。自分も東欧から来たユダヤ系の移民の子供なんだよね。少し前にミルグラムの実験の詳しい本(3)が出たでしょ、あれにけっこういろいろ書いてあって面白いよ。

まず主張すべきイデオロギーがあって、そのイデオロギーのデモンストレーションとして実験がされている。それこそ監獄実験(4)だってそう。監獄実験は再現性があるそうだけど。デモンストレーションの中でも強いやつは再現もするんだろう。そういう意味では、再現するっていうのは社会的なインパクトも大きいんだよね。だからミルグラムの実験を見た人は、あるあると思ったんだよ。いかにあるある、と言わせるか。それを映画を撮って見せたりした。映画を撮って見せるのも政治的な運動なんだよね。

そういうことを日本の心理学者は意識しなさすぎ、というより意識しちゃいけなかったんだと思う。いまは違って、いまの若い心理学者は政治的なこともけっこう言うよ。研究の前提になっている正義みたいなことを言う。佐藤達哉のところで生存学という障害のある人たちの生存についての学問をやっていて、院生といろいろ議論しているときに佐藤達哉が言ったのは、この研究分野では正義を主張してよい、こうすべきだ、こうなるのが正しい、と言うべきだ、と。心理学全体でも臨床や障害の分野のウエートは確実に大きくなっていて、障害の分野では正義と倫理は明らかにある。障害のある人たちがもっと社会の中でノーマライズされた生活ができるかというのは、はっきりした正義でしょ。それを否定している臨床の研究ってないでしょ。もっと端的に言えば治らない方がいい臨床ってあるのか。ポジティブ心理学も結局そういうことだし。


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