運を研究するということ(3)

対談 荒川歩×村上幸史

運を心理学的に分析した『幸運と不運の心理学』をめぐって,法心理学やコミュニケーション研究を専門とする荒川歩教授と,運研究を専門とする村上幸史准教授とが,運を研究することについて語ります。最終回の第3回は,幸運と幸福,オカルト本,自己啓発本との線引きについて取り上げます。(編集部)

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幸運と幸福

荒川歩(以下,荒川)

ちょっと別の話ですが,幸せであるというのと幸運というのはどう違いますか。

Author_arakawaayumu.png荒川歩(あらかわ・あゆむ):武蔵野美術大学造形構想学部教授。

村上幸史(以下,村上)

たとえば「あなたは幸福ですか」と聞くのと,「あなたは幸運ですか」と聞くのとでは回答にあまり大差はないようです。幸運が主観的幸福感と同じように使われているのだと思います。概念としてはあまり区別されていないことがあるようですが,「あなたはこういう幸運な出来事がありましたか」と聞くと,幸運と幸福の判断は違ってくるようです。

Author_murakamikoshipng.png村上幸史(むらかみ・こうし):2004年,大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程修了。博士(人間科学)。現在,関西国際大学現代社会学部准教授。『幸運と不運の心理学――運はどのように捉えられているのか?』(ちとせプレス,2020年)を刊行。

荒川

幸せは帰属の話でいえば,偶然性とは限らないですよね。努力の結果として,幸せかもしれない。そのあたりはなぜなのでしょうね。

村上

欧米で行われた研究を見ると,いいことが続いたり,少なくとも何か出来事が起こらないと幸福とは判断されないようなのですが,我々の感覚からすると,何も起こらない平穏なことも幸福と言いますよね。幸運というのは,何かが起こることなので,出来事を指すのではないでしょうか。「幸運ですか」と聞くといまの状態を聞かれているのと同じになるので,幸福の判断と似てしまいますが,実際には幸運というのは出来事の結果を指していると思います。いろいろあったけれども,結局成功しているというのは,帰結を指しているので幸運と呼ぶのだと思います。

荒川

幸運と幸福が帰結と状態だとしたときに,運資源ビリーフという言葉は幸運ではありそうですが,幸福でもあるんですかね。こんなに幸福だったら不幸になるんじゃないかみたいな不安です。

村上

それほど差があるわけではないのですが,運を使うと減るものだと思っている(「運資源ビリーフ」を持ち合わせている)人は,そうでない人よりも幸福と感じている割合が低いという調査結果が示されています。将来的なことも含めて考えているというのか,不幸になるという将来の予測の部分が幸福感を押し下げているような気がします。

荒川

運を使ってしまうとなくなると思っている人からすると,幸運であったり幸福であったりするのはあまりよくないイメージで不安が高くなると。

村上

適度なところがあるんですね。なくても困るし多くても困る。何も起こらないのが幸福なんじゃないですかね。

荒川

ちょっと寂しいですね。何も起こらないのが幸福だと。

村上

運資源が視覚化された世界を描いた『Y氏の隣人』というマンガがあって,いいことが起こると怖いので使わないでいるといつの間にかメーターが減っていて,それはあなたが幸せな人生を送っていたからだというオチになっています。そう考えると平穏というのも,運を使っていると思う人もいるかもしれませんね。

荒川

マイナスにならないということですね。それならちょっといいことがあって,マイナスになるときがある方がいいかな(笑)。

村上

宝くじに当たった人は,「飛行機に乗るのが怖い」とかそういう不安があるようですね。そういう意味では,幸運は人を越えたものという線引きがあるような気がしますね。いいことをしてきたから幸運を得ているという見合った幸運であればいいのですが,自分に見合っていないとか手につかないような幸運というものがあるようです。大きすぎる幸運とか。いらない幸運とか。

荒川

いらない幸運ってどういうことですか。

村上

たとえば商店街の宝くじで3等ぐらいに当たるとかですね。当たることは出来事としては幸運だけれども,たいしたことない。

荒川

それ難しいですね。主観的価値からずれる幸運ということですね。

村上

喜べないけれども,幸運は幸運だということですね。自分の中に幸運な出来事というものはあって,喜べるか喜べないかはまたそれと別だということですね。確率が低いことがうまくいくことは,幸運なんだとは思います。

荒川

顕著な出来事が起こるということですね。それがマイナスのことでなければ意味をもってしまうということですね。何万回に1回,自分が押したときにだけエレベーターが反応しないといったときに顕著なのかもしれない。こんなことに運を使ってしまって,ということになるのかもしれませんね。ポジティブなことでなくても。

村上

ICカードの定期がいつもは反応するのに,今日に限って反応しなくて電車に乗り遅れたとか。その日たまたま重要な会議があるとかだと,そう思いますかね。パソコンを使って酷使していると,たまに故障することがあるのですが,重要なときに限って故障したりするとそういうときに運を感じるのではないでしょうか。

荒川

卒論とか修論のときにプリンターが壊れるという話がありますね。

村上

実際にはそのときに酷使しているからかもしれませんね。タイミングが悪いということはあります。

オカルト本,自己啓発本との線引き

村上

運研究の思い出話を少しすると,研究を始めた当時はとくにオカルトや非科学が流行っていたので,それとの線引きが難しいということがずっとありました。今回書籍として刊行することで,切り分けることができたらなと思っています。昔,ある出版社から本を書きませんかと言われたことがあったのですが,よく話を聞いてみると「運がよくなる方法」とかを書いてくださいという依頼でしたので,そういうのはお断りしました。オカルトや非科学とは違うものとして,一般の方に伝える本を出すということがなかなか難しいなと思いました。

――そういう依頼があるんですね。

村上

向こうが期待しているものは,運がどのようなものかではなくて,運がよくなる方法とかなんですね。おそらく運をよくするために研究しないのであれば,何の目的で研究しているのか(笑)と思われるのではないかと思います。今回の本の中では,この本で運がよくなるわけではありませんということは強調したのですが,これを読んだ方の中には「せっかく買ったのに役に立たないじゃないか(笑)」と思う人もいるかもしれません。

――Twitterで,こういう本が出ますよと紹介したときに,占い師の方がリツイートされていて,どういう意図でリツイートしたんだろうと思ったことがあります。もしかすると勘違いされて,運がよくなることが書いてあると思って面白そうと思ったのかもしれないし,あるいは,もうちょっと客観的に考えてみようと思ったのかもしれないですけれども。

村上

占い師の方は意外と非科学的なことを信じていなくて,じつは人を見ているという話があるので,人の見方について何かヒントがあるかもと思われたのかもしれないですよね。案外,占い師の方が合理的だったりします。でも当てることが商売なので,合理的というよりも,むしろうまく説明することに長けているというところはありますね。人を見る目があったりとか。

――本の中でも書かれていたこととして,運を研究されている方が日本だけではなく世界的にもそれほど多くないということでした。領域としては認知心理学や社会心理学と関連してくるかなと思うのですが,Twitterの反応でも「面白い本が出るなあ」という反応も多くて,興味をもってくださる方もけっこういらっしゃいました。研究者がそれほど多くない理由というのは,何かありますでしょうか。

村上

僕が学部のときに運についての研究をしたいという話をしたときには,みなさん大反対で,「そういう不毛なことはしない方がいい」という反応でした。理由はいろいろあって,僕の説明がうまくなかったということもありますが,運の研究はどういうものかということを説明しきれなかったということがあります。運をうまくコントロールする研究だと思われてしまったようでした。非科学的なものを研究したがっていると思われたのもあります。ちょっとずつ探していくと,先行研究がないわけではなく,本書で紹介したようなものが多少はあるのですが,「先行研究がないようなものは実りが少ないからやめておきなさい,もっと堅い別の研究をした方がいい」と言われました。ずいぶん遠回りをしているのかもしれません。

荒川

これは本質的な問題で,運というものがどういう枠組みで見ていいのかよくわからないんですよね。先ほど村上さんがおっしゃったように,環境と人が溶け合う場所にあるというところがあって,従来のパラダイムで横並びになるものがないのだと思います。原因となる環境とか外界とかの1つとして運があって,でも環境とはまた別のものなので,扱うフレームがないっていうのが大きいんでしょうかね。

村上

第2章で紹介したような原因帰属については,研究の系譜があって,その中に運という要素は扱われていました。ただし,運については議論がなされていないうえに,この枠組みをそのまま使うと僕が思っていたものとはちょっと違っていました。もともと僕は運について人の考え方が違うなということ,とくに運を使うとか運が減るとかいうところの運自体の捉え方に違いがある点について興味がありました。原因帰属の中の運概念は外的で説明できないものという固定した枠組みですが,明らかに人は運で説明したり運を利用したりしているなということから考えると,順序が逆かなというふうに思いました。

荒川

順序が逆というのは。

村上

説明した結果ではなくて,理由に使っているということでしょうか。同じといえば同じなんですが。失敗した原因は何かと考えるのではなくて,自分はいまこういう状態だからこうしようということですね。

荒川

行動指針の材料にしているというようなことですかね。

村上

そうですね。いまも研究していますが,もともとギャンブルと運にまつわる研究をしたかったということもあります。ギャンブルをしている人がどう考えるか,たとえば当たった後に人はどう考えるかということですね。ギャンブラーズ・ファラシーという,ルーレットの目のようなランダムな結果であっても,前の結果が後の結果に影響を及ぼすとか,チャンスそのものの影響に関する推測を扱った研究は昔からありました。成功した後に失敗するとか,幸運の後にうまくいかなくなるといったような,前と違う結果が出るのはなぜかということを考えるわけです。

荒川

読んでいて,「運って,中間管理職っぽいなー」と思ったんです。末端の偶然性は勝手に動いているけれども,運が中間管理職で,上司から「いまいい感じだよね」とか聞かれて,本当はよい状態ではないのですが,「大丈夫です」と答えているように思いました。後で気づいたら運なんてよくなかったと思うわけですが,上司である人からするとそのときは何となくいい気になってやっているし,逆にそういうことがあるからうまくまわしていけて,次の行動が選べて予測可能感がある。直に平社員である偶然性だけを見ていると,よくわからないしリスクがわからないし行動できないけれども,中間層があるから何となく安心して上司である人が行動できるのかなと。そういうものがほしい人と,そういうものがなくてもいい人がいるのかなと。

村上

中間管理職ですか。体裁というか,そう見えたり,思えるのが大事なんですね(笑)。そういう意味では,幸運や不運は少し感情に近い側面があると思います。ギャンブルだと本当はランダムだから,何かをかけるというのは合理的じゃないんですよね。かける理由というのはまた別にあって,スリルがあるからとか,儲けるチャンスだからとか,自分が自信があるからとか推測するわけですけれども,その推測の1つに運に関する判断ということがあるんだと思います。荒川さんが言ったように,できないこともできるようになるということもあるし,逆にそれも避けることもある。宝くじに当たったから飛行機に乗るのをやめよう,とかいうのもあると思います。連続して何か行動を起こすときの判断みたいなものにも興味があって,そこが研究の出発点なのかもしれません。

荒川

チャンスや偶然性みたいなものにさらされて,それに向き合って生きるということはつらいので,運みたいなもので守られて,予測できた感がないと人がつらいんだなというふうに拝読しました。

村上

チャンスや偶然性のような不確実性を低減しようとするために,努力をしたりすることで,コントロール感を高めるわけです。それができない人に,運はたしかに緩衝材としてプラスの効果がある一方で,実力も努力も他者に負けないという自負がある人にとっては,運が邪魔でしかないかもしれません。何とか運を利用しようとしている人がいれば,振り回されている人もいる。少し話が戻りますが,運の研究を始めた頃を思い出すと,その運に関する考え方の多様性を知ろうと,当初はいろいろな人にインタビューしていました。多くの人は自分のもつ考え方を始めとした運の話を面白がって話してくれます。ただ,研究としてインタビューされる側に立ってみると,オカルト的なものや非科学的なものをバカにするためにデータを集めているのではないかと思われる可能性もあり,構えができて,そこをうまく回避しないといけないと感じたことがありました。ただし,そこまで深く考えなくても,運とか幸運とか不運とかについてあらためて語ること自体は,面白がってくれているのではないかと思います。こちら側の調べたいことを,いかに理解してもらうことがカギなのかもしれません。

――心理学にも疑似科学の研究をされている方がけっこういらっしゃると思うんですけれども,そういう方は「疑似科学をなぜ信じてしまうのだろう」というスタンスの方が多いような印象があります。今回,村上先生の本を編集するにあたって,村上先生はそういうスタンスではないなということをすごく感じました。人がどう感じているかとかそういうことに興味をもって,それを知りたいという発想なんだなということが,ほかの疑似科学研究とは違う印象をもちました。

村上

まず,この本の第1章のところにそういうことを書こうと思って,研究のスタンスを区分けしました。先ほど言ったように研究会のときに伊勢田先生がいらっしゃったことも影響しています。アプローチとしてはいろいろあってよくて,疑似科学が間違いだということを示すというスタンスもあってもいいですし,科学の立場から人が信じているということを検証したいということでもいいのですけれども,僕は信じているということ自体よりも,それをどう使っているかということが面白いなと思っています。疑似科学の研究目的として,科学的に間違いであることを示すことには,インチキ商売を暴くというような,価値が別にあるんだと思うんですね。そういう意味では僕のような研究が何か役に立つかと言われると,ちょっと答えるのが難しいかなとは思いますが。僕は,人がこういうことを考えていることを知ることが大事だというふうに思うわけですが,具体的に本当に何かに役に立つかと言われると難しいなとは思います。

荒川

運という概念が人にとって,どういう意味で重要なのかということは,人の心がどういうふうにあるのかということにつながりますし,重要だと思います。運という概念は,ある意味では心のセーフティネットのようなところがあると思うんです。人が運という概念をどう使うかということは,運という概念を使うことでこの不確実な世の中をどうサバイブするかということでもあり,逆にそれにのめり込みすぎて踏み外さないようにするということでもあって,その両面をこの本では書かれていて意味があると思います。全然役に立たないなんてことはないと思いますよ。

村上

実際にそれが運が原因かわかりませんが,運について困っていて,運がよくなりたいと思う人は多いですね。

荒川

運とどう距離をとっていいかわからないんじゃないですかね。そことの距離がねじれちゃっている感じがあって。そこをどうやって加減するかということが,今後ありうるテーマのような気がしますね。運に縛られてしまうメカニズムを明らかにすると,役に立つなと思いますけれども。疑似科学としてではなくて現実世界として。

村上

もう1つ線を引きたかったこととしてあるのは,啓蒙的な本というか自己啓発的な本との線引きですね。今日の運をよくするためには,自分の心のもち方を変えましょうといったようなものです。究極的には心のもち方ではないのかと言われるとそうかもしれないのですが,たんに心のもち方ということでもないような気もするんですね。そういう誤解を招かないように書いたので,ややくどいというか余計なところもあったかもしれません。

荒川

いやよくわかりましたよ。いいと思いますよ。これからもぜひ運研究を展開していってほしいと思います。

→(了)

運とはいったい何なのか。運の強さやツキはどのように語られ,認識されているのか。運を「譲渡する」現象はどのように捉えられているのか。日常生活の中から,さまざまな記事やノンフィクションにおける運の描かれ方を分析し,その実態に迫る。