運を研究するということ(2)

対談 荒川歩×村上幸史

運を心理学的に分析した『幸運と不運の心理学』をめぐって,法心理学やコミュニケーション研究を専門とする荒川歩教授と,運研究を専門とする村上幸史准教授とが,運を研究することについて語ります。第2回は,状況としての運,運と偶然性との関係,運と穢れとの関係,媒介物としての運について取り上げます。(編集部)

連載第1回はこちら

状況としての運

荒川歩(以下,荒川)

いま,ある程度のスパンという話がありましたが,何かが起こる前に幸運だという状況があるんですかね。起こる前だけれども幸運ってことはありますかね。この本の中で『満潮!ツモクラテス』という漫画を紹介されていますが,潮のようなものがだんだんバロメーターのように上がっていくということがあります。リアルの体験としては,よいことがあって「自分がついているんだ」ということを後で感じるわけですけれども,何もないのに運がよくなってきた気がするということは実際にはない気がしますよね。

Author_arakawaayumu.png荒川歩(あらかわ・あゆむ):武蔵野美術大学造形構想学部教授。

村上幸史(以下,村上)

麻雀をやっている方にインタビューをしたことがあるのですが,いまおっしゃったように運を結果をもとに語ると場合と,もう1つ,ちょっとした結果とかちょっとした出来事に対して,ついているという状態として使っている人がいます。

Author_murakamikoshipng.png村上幸史(むらかみ・こうし):2004年,大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程修了。博士(人間科学)。現在,関西国際大学現代社会学部准教授。『幸運と不運の心理学――運はどのように捉えられているのか?』(ちとせプレス,2020年)を刊行。

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荒川

何のフィードバックがなくてもですか。

村上

危ないと思って捨てた牌がたまたま当たらなかったとか,何かしらのフィードバックがたしかにあります。フィードバックが最終的な結果につながるかどうかは別なんですが。本人の状態を意識しているという意味でのツキというものはあると思います。最終的に結果として勝つ負けるということではなく,そのゲームであがるとかそういうミクロな結果でツキを感じるわけです。状態を見る人というのもけっこういて,その場合にツキという言葉を使うのではないかと思います。何らかのフィードバックがないわけではないのですが,いま自分に潮が満ちているような状態を感じているのではないでしょうか。実際には見えないものなので,漫画ではそれを潮が満ちるというふうに表現しているわけですね。

荒川

同じ牌を捨てて他の人に当てられなかったときに,運がよかったと感じるのか当然のことだと感じるのかということに,状態としての運というものがフィードバックとは関係なくあるのではないかということですね。

村上

ギロヴィッチ(Gilovich)らのバスケットボールに関する研究で,同じリングをかすめてボールが入らなかった場合に,惜しいと見るのか失敗と見るのか,というものがあります。前者の見方ではツイている,ゴールに近いと感じているわけです。このように,自分の状態,つまりツイているのかどうかをどう見ているのかという判断につながることがあるのではないでしょうか。

運と蓋然性・偶然性

荒川

そこで運と蓋然性や偶然性の問題に戻ってくると思うのですが,運と偶然性の違いについて簡単に説明してもらえますか。

村上

偶然性は物事自体の性質を指していて,もともとランダムであることだと思います。このランダムなものを運と呼んでいる場合もあれば,そうでない,自分との関係で因果を説明しているような場合もあります。人と関わらずに機械的にサイコロを振って数字が出るのは偶然性です。広い意味では運が偶然性そのものを指す場合もありますが,基本的には人が関わってくる現象なのではないかと思います。人が何かの行為として出した結果,でしょうか。サイコロを振ったところでサイコロに自分が何か手を加えているわけではなく,実際には結果はランダムだけれども,自分が関わっている感覚が生じますよね。

荒川

自分が関わった結果,蓋然性が上がったり下がったりするものが運ということですね。

村上

蓋然性が上がったり下がったりすると思っているものですよね。蓋然性そのものは変わっていないんだと思うんですよ。サイコロはランダムですから。

荒川

しかも特定の蓋然性ですよね。自分が出てほしいと思っている出目が出る蓋然性が上がったり下がったりする。

村上

自分の中の期待というものが必ずあって,運は特定の値が出ることを指すわけではなくて,自分が期待する結果が出ることと結びつけて運というのではないでしょうか。人が何かの方向性の良し悪しと結びつけて,運というものが出てくるのではないかと思います。ランダムのことを運と呼ぶこともあるし,説明できないことを運と呼ぶこともありますので,そのあたりはごっちゃになっている部分はあります。

荒川

主観的に何とかしていまの状態を推定しようとするとか,蓋然性の上がり下がりを否定しようとするのが運ということですね。サイコロで何が出るかとか麻雀で欲しい牌が来るかどうかはコントロールできないわけですが,コントロールできないものを何とかコントロールするあがきのようなものなのかなと,本を読んでいて思いました。うまくいったものが合理的な論理であり,先ほどの失敗したものや結果的にうまくいっていないもので説明が不十分なものが運なんですかね。

村上

原因帰属の知見から考えると,何回やってもうまくいく場合にその人の実力とか能力に帰属されるわけですが,運というものには人が及ばないものがある程度入っているのではないでしょうか。実力とか技術では説明できないものが含まれているのだと思います。

荒川

村上さんはこの本でも,chanceとしての運とluckとしての運という2つの運を紹介していますね。

村上

chanceとしての運はランダム性の性質をもっているもので,luckは人が関与するものだと思います。この本は,全体としてはchanceの心理学ではなくてluckの心理学なのだと思います。chanceのことについても,偏りがどのようにして生まれるかということを少し説明しましたけれども,それは基本的には科学の世界であって,僕がこの本で紹介したかったことはluckの世界だと思っています。人がどう思うかとか,どういう結果を望むかということが反映されていると思います。

荒川

luckということは人の属性もあるということですね。運が強い人,運が弱い人というのはluckなわけですね。何らかの目に見えない,本人も説明できない引き寄せる何かがあると。

村上

期待したり,思う結果が出ているということですね。人が期待したり,望む結果の方向性があるとすれば,それは事象の性質のchanceではなくて,luckの問題なのだと思います。人と出来事は切り離して考えることは難しいですね。

運と穢れ

荒川

人につくということで考えていくと,最近は穢れの研究というものもありますよね。たとえば,犯罪者の服を洗っても穢れているように感じられるという研究があります。運と穢れとは何か関係があるんでしょうかね。

村上

運を渡すということは,呪術的思考ですよね。似たようなものや接触したものに価値があるということです。科学的に汚れているわけではないけれども,その人が着ているものを穢れていると感じる。勝っている人や成功した人の物を欲しがるというのもそういうことですね。失敗した人の物を欲しがることはあまりない。あるとすればたとえばパチンコは台で当たりが決まっているので,確率として当たりが出ていない台を選ぶとそのうち当たりが回ってくるという人もいますけれども,基本的には成功していた人の物を欲しがります。運と穢れは似ていると思いますね。

荒川

違うところは何でしょうか。穢れは物理的なものが強いですけれども,運は非物理的なものが多いんですかね。

村上

いまちょっと思ったのは,穢れというのは将来的に何か影響を及ぼすものなんですかね。たとえば呪いのようなものであれば,呪いにかかるとその後によくないことが起こるということがあります。成功した人からタッチしてもらったり物をもらったりするのは,その後に成功が起きることを期待していますよね。穢れも将来よくないことが起こると思うんですかね。穢れの場合は,結果的にネガティブなことが起きそうと思っているわけではなく,生理的に嫌悪を感じているということがあるとは思います。これに対して,運の場合は,次の何かを期待しているような気がします。

荒川

運をもらった後にということですね。運の渡し方としてこういうふうな場合に渡せるという,運をもらうときの条件について,本でもいくつか整理されていました。

村上

もらったとか渡したというのは,実際に運をもらったと思っていたり,渡せたと思っていたりする際に語られるのですが,スポーツへのコメントとかが多いですね。本当にもらえるかどうかというよりは,運がよい人と知り合いであるということを強調して語っているのではないかと思います。知らない人からもらうということは,あまりないと思います。

荒川

運の譲渡に関して,図5-2で7つに分類されて空間的に書かれていますが,全体として環境に関することという共通点があるように思いました。その人の生活環境に何かしら変化をもたらすときに,運の譲渡が行われるということなのでしょうか。

fig05-02

村上

物理的に接触しているか接触していないか(精神的)という軸と,直接的にもらっているか間接的にもらっているか,という軸で分類した図ですね。観戦というものは,たとえば成功した人が見に来てくれたということですが,この場合に何か環境に変化が起きていますかね。

荒川

目には見えないし,本当にあるかどうかわからないけれども,まだ未解明の何らかのものが変化していると感じるから運の譲渡というものを考えるのかなと。検証するためには実際には環境的な影響を与えないものを想定して比較する必要があると思いますが,最後の第6章に出てくるいろいろな運にまつわる用語を見ても,わりと環境的なものに関する言葉が多いのかなと思いました。

村上

もともと運が外部要因と見なしていることが大きいのではないでしょうか。外部要因を取り込んだり味方にしたりするということがあると思います。「運を使う」といった表現もありますけれども,基本的には外部にあるものなのではないでしょうか。たとえばツキが明らかにそうで,自分の力以上のものが状態的に来ている。逆にもっているといったように,本人の資質のような内的なものを指している場合もあります。本当はコントロールできない外部のものを,コントロールできる力と見なされているんでしょうね。

媒介物としての運

荒川

そう考えると面白いですね。運をもっているということは内側から外側にうまく働きかける媒介物であり,運がついているってことは外側からくっついて自分にとってよいポジティブな結果をもたらすようにしてくれるものである。ちょうど外界と内側との間に貼りついて媒介しているものが運なのかもしれませんね。外側には蓋然性と偶然性というものがあるんでしょうけれども。

村上

それは環境と内側の人が切り離せるということなのでしょうかね。環境というものは別物で,それを媒介するものが運だとすると,それを運は接着させているわけですよね。ちょっと思ったのは,行為者と環境を切り分けられるのかなということがあります。

荒川

切り分けられないとどうなりますか。

村上

原因がわからないということですかね。帰属理論では能力とかに切り分けていますけれども,正解はないですよね。本当に切り分けができるものなのかなということをちょっと思います。

荒川

切り分けられないというのは,この本でもいろいろな偶然性を九鬼周造の議論をもとに整理されているなかで述べられている仮説的偶然性みたいなことですかね。誰かがどうにかなるというのはそうなんだけれども,自分がそうなるというのが決まっておらず,必然ではない。

村上

出来事が起こることと自分がそれに遭うこととは違うということです。

荒川

起こるということはある種外界の出来事だけれども,それが自分に起こると考えたときには,この2つが別々のものではなくて必然的に起こったような感じがする。

村上

先ほどサイコロの話がありましたが,サイコロの結果は人がどうしようと結果が決まるわけですけれども,そこにどういう結果がいいとか自分がどういうふうにしたいという価値を含めると,行為者と環境の線の引き方がわかりづらいのかなあということです。

荒川

行為者がサイコロを振って1が出るときに,行為者が1を出したのか,偶然で1が出たのかということについて,どこまで行為者が重要だったのかということですね。

村上

客観的にいえばサイコロはランダムですので,人の力はゼロということにはなりますが,事故とかを起こした際に,責任や原因がどこにあるのかを考えたときに,正解はないですよね。それを切り分けていくことを日頃はやっているわけですけれども,普通のモデルでは人と環境が別に存在していて,運の場合はそこがはっきりしないような気がします。

荒川

偶然性は外界的なものですが,運の場合にはどこまで行為者のものかということがわからない。

村上

人の解釈のうえでは,運が環境と行為者をつなぐ媒介なのかもしれませんね。

荒川

運の場合には,外界と行為者が分離しにくいというのは面白いですね。

村上

人によって考え方が分かれそうなところではあります。

荒川

運を信じている人ほど,外界と行為者が溶け合うということでしょうかね。

村上

自分がやったことが,何か影響を及ぼすと考えているんだと思います。

荒川

それは自分が外界に対して超魔術的な力で影響してるということではなくて,溶け合っているという感じなんですかね。

村上

たとえば先ほどの疫病の話でいえば,自分の「運が強い」と認識している人は,自分がかからないと見積もっているだけでなく,自分が行った土地では病気が発生しないといった項目を測定しても値が高いのです。他に,この調査では自分が就職活動したときに上手くいくだけでなく,希望する職種が募集されている確率も高く見積もるという結果も見られています。「運の強さ」という概念は,自分がそれに成功する確率だけではなくて,外界の機会を変える力として見なされている,つまり出来事を引き起こすかどうかということが,運の範疇に入っているような気がします。

荒川

「私が来たから大丈夫」みたいなものですね。

村上

いわゆる生存者バイアスを越えて,あるような気がしますね。

荒川

自分の体験だけではなく,影響が外界に溶け出すわけですね。

村上

自分の周りにいれば大丈夫ということにもなりますね。

荒川

それは運なんですかね。それとも自分の超魔術的な力なんですかね。

村上

広い意味では運と呼んでいるのではないでしょうか。実際には運ではないのかもしれないですけど,説明できないから運なんでしょうね。

荒川

雨男とか晴れ男とかいうことですね。

村上

客観的には思い出し方の偏り,つまり確率の誤解なんですけれども。実際には本人たちは自分が天気を変えられると思ってるわけですよね。

荒川

環境に対する影響力ということですね。

村上

雨が降って濡れた濡れなかったということではなくて,降らせる降らせないということなので。そのあたりが媒介なのか媒介を越えているのかはわからないのですが。

荒川

いまの話で,先ほどの穢れと運との違いがわかった気がしました。穢れというのは外側から内側に来るものだなと。運は内側から外側にいくもののような気がしました。人から物へ,もちろんそれは人から人に渡したりもできるから,外側にも押し出せるものかもしれません。

村上

運を使うとか,その人が運をもっているというのは内側ですよね。先ほどのツキみたいなものは,外側からくるような穢れと近いのかもしれませんね。ただ,ツキの場合はどちらかといえば一時的な説明が多くて,穢れは時間単位というよりは,物とか人とかが多いですね。

荒川

ただ,1回ついてしまったら手を洗えば離れるけれども,それまでは持続するという感じがありますね。

村上

たたりとか呪いとかに近いんですかね。

荒川

外側からという印象ですね。

村上

運の説明は幅が広いといいますか,何でも運と呼んでいるというのが正解なのかもしれません。

第3回に続く

運とはいったい何なのか。運の強さやツキはどのように語られ,認識されているのか。運を「譲渡する」現象はどのように捉えられているのか。日常生活の中から,さまざまな記事やノンフィクションにおける運の描かれ方を分析し,その実態に迫る。