心理学から見る文化/文化から見る心理学(1)
鼎談 サトウタツヤ×尾見康博×木戸彩恵
Posted by Chitose Press | On 2019年07月19日 | In サイナビ!, 連載文化を記号として捉え,文化との関わりの中で創出される人の心理を探究する文化心理学。『文化心理学』を編集したサトウタツヤ・立命館大学教授,木戸彩恵・関西大学准教授,『日本の部活』において文化心理学的アプローチから部活を分析した尾見康博・山梨大学教授が,文化心理学の醍醐味と今後の展開を語ります。
文化心理学のテキストを編む
尾見:
『文化心理学』(1) を読んで,まず思ったのは,これはサトウタツヤ・ワールドだなということです。以前から,このテキストに載っているような,名前や血液型や,目撃証言など法と心理学に関することを,ご自身や立命館大学の院生・研究者たちが研究しているのは聞いていました。化粧の研究はサトウタツヤ・ワールドではなく木戸さんが開拓した道だろうと思いますが,この本のかなりの多くの部分がサトウタツヤ・ワールドだなと。
タツヤさんがこれまでに書いているものは歴史の方が多いですよね。ただ,かけている労力としては歴史以外の方が多いのかなとも思いますが。
尾見康博(おみ・やすひろ):山梨大学大学院総合研究部教授。主著に,『日本の部活(BUKATSU)――文化と心理・行動を読み解く』(ちとせプレス,2019年),The potential of the globalization of education in Japan: The Japanese style of school sports activities (Bukatsu).(Educational contexts and borders through a cultural lens: Looking inside, viewing outside. Springer, pp. 255-266, 2015年),Lives and relationships: Culture in transitions between social roles. Advances in cultural psychology.(Information Age Publishing, 2013年,共編),『好意・善意のディスコミュニケーション―文脈依存的ソーシャル・サポート論の展開』(アゴラブックス,2010年)など。→Twitter(@omiyas)→webサイト
サトウ:
そうはいうけど,労力という意味では歴史はすごく大変なのよ。いろいろ調べたりするから。でも尾見(敬称略)の言うことは正しくて,手をかけているという意味では歴史以外が多いのはそうだね。
サトウタツヤ(佐藤・達哉):立命館大学総合心理学部教授。主要著作:Making of the future: The Trajectory Equifinality Approach in cultural psychology(Information Age Publishing,2016年,共編),『心理学の名著30』(筑摩書房,2015年)。
尾見:
だからタツヤさんの現時点での集大成的なものに読みました。ぼくはタツヤさんが大学院生の頃からいろいろと話を聞いてはいたけれど,これまであまり書いていなかったようなことも今回,院生たちと一緒に書いてあるように思いました。中には,本当に院生たちが自分でこんなことを調べたのかなと思ったところもあって。たとえば歴史的な背景にこだわっていることとか。若い研究者が独自に調べたのか,タツヤさんの助言があったのかはわかりませんが,いずれにしてもすごい。あと,理論のところで出てくるヴィゴーツキーは,通常は発達心理学者や教育心理学者が取り上げていますけれども,この本で出てくるような各論や方法論は発達や教育の領域にとどまらなくて,どちらかというと社会心理学で扱われうる現象ですよね。それをヴィゴーツキーや記号という観点で扱っている。
――サトウ先生が文化心理学に興味をもったきっかけは何だったのですか。
サトウ:
きっかけはヤーン・ヴァルシナーですよ。
――そうすると偶然なのでしょうかね。
サトウ:
偶然であり必然。個人的には,比較―文化心理学は変数心理学だし,ヴィゴーツキーはソビエト心理学だし,ということで敬遠していたものでした。その意味で,自分が文化心理学と言い始めるのにはためらいもありました。でも,木戸(敬称略)が関西大学で文化心理学の授業をもつことになったりしたので,ここで文化心理学という名の書物を世に問うのも良いかも,と踏ん切りがついたんだよね。
木戸:
大学での専門が文化心理学ですからね。関西大学の文学部は面白くて,文学部独自でできるような領域を扱うことで,公認心理師資格を扱う社会学部とは別の特色を出そうとしています。
木戸彩恵(きど・あやえ):関西大学文学部准教授。主要著作:『化粧を語る・化粧で語る―社会・文化的文脈と個人の関係性』(ナカニシヤ出版,2015年),『社会と向き合う心理学』(新曜社,2012年,共編)。
サトウ:
関西大学文学部の心理学は,ちょっと哲学的なところもあるしね。一方,こちらの事情を話すと,立命館大学では新しく総合心理学部を作るときに科目をどうしようかということになって,これまでは応用社会心理学を担当していたのですが,法律や健康やメディアに関する科目はちゃんと個別の科目として立てて,別の人に担当してもらうことになりました。さて自分が新しい学部で何を担当しようかということになって,文化心理学でもやろうかと。そして何かテキストがあるといいねということで,今回このテキストを作りました。木戸(敬称略)の出産と重なったので刊行の予定が結果的に1年延びてしまいましたが,そのおかげでほとんどできていた原稿をもとに2単位科目の「文化心理学」の授業をやることができました(2018年度)。やはり,授業を一度してからテキストを作るといいですね。
木戸:
私もそう思いました。ライブの反応を取り込んでまた作り込むみたいな。
尾見:
第1部の理論のところを読んで,タツヤさんが珍しく格調高く書いているように感じましたね。歴史以外では,こういうものをあまり書いていないのではないかと。ところどころ遊んでいる部分はありましたが(笑)。パースのことなど,話はこれまでに聞いたことがありましたが,きちんと書いたことはなかったのではないでしょうか。
サトウ:
パースは初めてかもしれないね。この本は私が話してきたことを読める唯一の本ですよ(笑)。とくにヴァルシナーの促進的記号や時間と共にある記号ということに関して,日本語では解説的なものは書いてこなかったし。今さら私がヴィゴーツキーの話をするのもちょっと恥ずかしいところもあったけれど,外すわけにいかなかった。ソシュールについてもかじっただけだけれど,外すわけにもいかないので頑張って書いた。
文化心理学における記号
尾見:
ちょっと専門的になりますが,「記号」のことについて伺いたいと思います。全体を読み通してみて,記号という概念の扱いが飲み込みにくかったという印象がありました。読み終えた後の僕なりの記号の捉え方が合っているかを聞きたいのですが。記号は意味を発生させるような事物や事象を指すということでいいでしょうか? 全然違いますか。
サトウ:
全然違わないけれど,そこで難しいのは「意味を発生させる」というのが「刺激と反応」というような一対一対応のものではないというところだね。
尾見:
わかります。もともとの言語学で記号を説明するときは,1つの事物が意味をもったものとして個人に立ち現れると,そこに記号があったと後づけ的に言うわけですよね。タツヤさんがよく例に出す,山に残った雪がウサギに見えて,それが田植えの時期として意味づけがなされる,というようなことで,特定の人にとっては完全な記号として機能するけれども,別の人にとっては記号でもなんでもない。それはわかりやすい記号の話ですね。この本で記号という言葉を使うときに,事象を記号と呼んでいるときと,意味として作られたものを記号として使っている両方があったという印象があります。記号だけだとスタティック(静的)なものだと思いますが,時間があるのでスタティックではなくなるわけですね。促進的記号がスタティックではないものとしてきちんと描かれているかなと少し気になりました。ただ,難しいことだとは思います。促進的とか抑制的というのも後づけですよね。
サトウ:
解釈としては後づけだけれど,記号として働いているときは前向的じゃないかな。少なくとも,記号は過去までの経験に基づいたものでしかない。たとえば,「(今,手に持っている)これがクッキーだ」と言ったときに,それは過去の経験に基づいたものでしかない。そのものがクッキーとしてもつ意味のようなことを,記号は,たった今,私たちに突きつけている。
木戸:
そして,未来は想像するものでしかない。
サトウ:
その想像に誘われて「食べよう」と言った瞬間に,記号として作用しているわけではなくて,食べているときに記号として働いている。「これはクッキーだ」という認識は過去の経験の蓄積でしかないわけですが,実際にクッキーだと思って食べたら,それは促進されていたということになります。
木戸:
食べなければ促進されていなかったということですよね。
サトウ:
この机の上のクッキーの横にある録音機器は食べられないので,食べることは促進されないし,現実に食べない。食べなかったから抑制になっているわけではなくて,この時点で抑制的記号になっているから食べないわけです。クッキーを今食べたとしよう。そうすると,促進的記号なわけです。
ロウでできていたクッキーのようなものを食べてひどい目にあったとか,お腹いっぱいのときに食べたらおいしくなかった,というような経験があったら躊躇するかもしれないけれど,今は実際に食べるわけです。そのときに過去の蓄積でしかない記号が促進的記号になっている。
尾見:
目の前にある状態では促進的記号にはなっていないのでしょうか。
サトウ:
グッドクエスチョン。それは現在の幅の問題で,食べるという行為における「今」をどこからどこまでと考えるかだね。たとえば,大学生活の「今」といえば,4年間を指す。クロノス時間(時計で計る時間)でいう「今」ではなく,カイロス時間としての「今」ですね。何が促進的記号かは,明晰な理屈をつけられると思う。どうしても刺激と反応の枠組みで考えてしまうから,後づけだと考えちゃうのではないかな。でも本人の行為は後づけではないでしょう。
尾見:
難しいな。クッキーは食べるのを促進していますよね。これと似た形態のものを食べたことがあって,これまでの経験から食べてもいいかなと思っているわけでしょう。促進というのは行動を促進するということでいいわけですか。
サトウ:
そうそう。
尾見:
じゃあもし実際に食べてみて,「うわ,なんだこれ」となったときは抑制になるというわけですね。
サトウ:
味とか生理的なことになると,ちょっと違う気もするが。
木戸:
甘いものを食べたいなと思って,クッキーを手にとって食べるとき,促進的記号になる。
サトウ:
甘いと思って食べたけれど,辛かったから吐き出すということもありうる。
尾見:
(目の前にあるクッキーを指して)このクッキーは今,促進的記号であり続けているということでいいのですかね。
サトウ:
そうです。カイロス時間における「今」ね。そのときにものがものとして存在するだけではなく,記号としても存在する。たとえば,こっちのゴマのクッキーが食べたかったとして,でもこれは今,袋が開いていないので,袋をわざわざ開けてその中の1個しか食べないのは大人としてどうなのかな,と逡巡するから,食べないわけです。抑制されている理由には,判断も入っているわけ。促進的記号があるから食べているわけではなくて,同時に抑制的記号が働く場合もある。
尾見:
文脈などをひっくるめて促進しているわけですね。こっちの開封されていないゴマのクッキーは抑制されているわけですよね。
サトウ:
そこで内的に認知メカニズムが働いているという話にはしたくないわけ。ただ食べている,もしくは,食べていないということ。とはいえ,(刺激―反応によって説明できるような)反射ではない。
尾見:
もしもクッキーを見たこともない人がいたときには,これは促進も抑制もしない,記号として働かないと言っていいでしょうか。
サトウ:
そうそう。
尾見:
それに対して,「自分は経験上これを好きではない」という場合は,抑制的記号になる。
サトウ:
最近気になっているのが体験と経験という言葉です。英語にするとどちらもexperienceです。今言葉が出たように,「経験上」とは言うけれど,「体験上」とは言わないですよね。体験と経験はどう違うのか。
尾見:
体験は一回性が強いように思います。経験は繰り返しているように思います。
サトウ:
やっぱりそうだよね。それがどこに蓄えられているのかということになると,記憶ということになっちゃうわけですが,それを内的なものとして捉えたくないわけです。
尾見:
習慣に近いですかね。
サトウ:
そうね。
尾見:
難しいですよ。いつその人にとって促進的記号として立ち現れるのか。たとえば,お小遣いの話が本にありましたが,何人かで食べに行って,それを誰が支払うのかということに関して,一緒に食べに行く段階から記号が発生していると考えるべきなのか,それともお金を払う段階で発生するものなのか。
サトウ:
それは分析する際の行為の大きさの問題ですかね。
尾見:
すると,どうとでも言えるということでしょうか。
サトウ:
どうとでも言えるんじゃないの? ご飯食べに行くときと言ってもいいわけですが,勘定するときと言ってもいいし,実際に支払うときと言ってもいい。
尾見:
そこにあんまり意味はないのか。
サトウ:
というか,これもさっき言った「今」の幅の問題なのかもしれない。クロノス的時間でいえば今は一瞬だけど,カイロス的な「今」ということになる。
理論と各論
尾見:
気になったこととして,理論的な問題と実証上の問題とがうまく区分けできない感じがしました。各論のところで実例をあげて実証しているわけですが,理論的なところはすっきりしているとしても,各論になったときに後づけ的に感じてしまう。
木戸:
尾見先生がそのように考えられるのは「記号」の扱い方にいろいろなレベルがあるからでしょうか。
サトウ:
きれいな研究を産出したいかどうかですね。そこにどれだけ時間をかけて,きれいな論文を書いて,誰が満足するのという疑問はあるけど。
尾見:
少なくとも自己満足にはなりますね。たとえば,ヴィゴーツキー理論がこんなにきれいに出ましたということになる。典型的なヴィゴーツキアンは,教室でそういう事例を探しているイメージがあります。本当にそうしているかは知りませんが。
サトウ:
ゲシュタルト心理学者・レヴィンのハンナちゃんが石に座れないという動画については,実例が1個あれば十分みたいなところがある。文化心理学の授業でこの動画を見せると思っていた以上の反応がある。
木戸:
動画が残っていること自体が感動ですよね。
ハンナちゃんという1人の女の子が,石に座ろうとしても座れない。なぜなら,石の方を常に向いているから。一度背を向けないと座れないということがわからない時期があるということですね。これは私たちもそうだったと思うのですが,それをみごとに抽出して見せた動画です。
サトウ:
あるいは,話が飛ぶけど,この本や文化心理学の授業が,心理学との初めての出会いになる人がいる場合もある。たとえば「ビューラーが言った記号の場の依存性という考え方はすごいですね」と学生が感想に書いたのですが,「世界中で今,ビューラーが凄いとか言っているのはお前だけだから……」みたいなところもあるわけです(笑)。
このテキストを読んだ学生に言っているのは,(文化的な)差異を1つひとつ記述したり理解したり記憶して応用しようと言っていてはキリがないということです。日本ではこう,デンマークではこう,セネガルではこうと調べて比較するだけではキリがない。やはり理屈が必要で,理屈があれば差異に驚かない。そういう理論にまでは,まだいっていないように思う。理論化までできれば,「ああそういうことだったのか」となるわけです。理屈を知っていれば少なくとも差異は察知できて,それに驚くことがあっても絶望しなくてすむ。そこまでになってくれればいいなと思っています。それは,この本を読んで勉強をした学生たちがやってくれる仕事なのだろうと思っています。我々はなかなかそこまではいけない。
木戸(敬称略)とお互いの学生の感想などを見せ合ったりしていますが,よくこういうことを考えるよなと感心することがある。我々の常識からすると,心理学っぽくないことを言っているわけですが,彼らはそれを心理学としてとらえている。
尾見:
それはまあ,心理学というタイトルの授業ですからね。
木戸:
「これは心理学ではない」と言ってくる学生もたまにいますよ。去年,出産で休んでいる間,私のゼミを社会学出身の先生に頼んでいました。復帰して学生と話をしたら,みんなの卒論の内容が心理学の王道テーマになっていて驚きました。ゼミ生が揃って「先行研究の追試をする」というようなことを話していて,どうしてだろうと思ったら,社会学の先生がいわゆる「心理学」を意識しすぎていて,そのような指導をされていたようです。
尾見:
外から見たら,心理学はそういうものだということだね。
サトウ:
論文を読んで追試すると。そして同じ結果が出ないと……(笑)。
木戸:
みごとにみんながそうなっていたので,笑ってしまいました。今は,「その研究をすることが,あなたにとってどのような意味があるのかを一番に考えなさい」と言って軌道修正に取り組んでいます。
文献・注
(1) 木戸彩恵・サトウタツヤ編 (2019).『文化心理学―理論・各論・方法論』ちとせプレス
人に寄り添う文化と人の関係性を描く。文化を記号として捉え,文化との関わりの中で創出される人の心理を探究する文化心理学。その理論や歴史を丁寧に解説し,ポップサイコロジー,パーソナリティ,学校・教育,自己,法,移行に関する12のトピックについて,文化心理学の見方・考え方を各論として紹介。方法論もカバーした決定版。