日本の部活(BUKATSU)のあり方を考える(2)

対談:内田良×尾見康博

心理学者の尾見康博・山梨大学教授と,教育社会学者の内田良・名古屋大学准教授が,日本の部活のあり方を考えます。第2回は心理学からのアプローチの特徴と根性論・気持ち主義について。

連載第1回はこちら

心理学としては異色の部活研究

尾見:

この対談の取り合わせが面白いのは,僕は心理学が「科学的」にデータですべてを語ることに疑問をもって部活というむちゃくちゃ泥臭い社会的な問題に入ってきた。内田先生と逆方向ですよね。いまは科研費で量的データもいろいろととっていますが,本の中では僕の独自の数量データはそれほど多くありません。自分が見聞きした内容については書いていまし,素朴な記述データは示していますが,多変量解析や有意性検定などの複雑な統計分析はほとんどありません。もしかすると心理学者からは疑問をもたれるところもあるかもしれません。

Author_omi-yasuhiro尾見康博(おみ・やすひろ):山梨大学大学院総合研究部教授。主著に,『日本の部活(BUKATSU)――文化と心理・行動を読み解く』(ちとせプレス,2019年),The potential of the globalization of education in Japan: The Japanese style of school sports activities (Bukatsu).(Educational contexts and borders through a cultural lens: Looking inside, viewing outside. Springer, pp. 255-266, 2015年),Lives and relationships: Culture in transitions between social roles. Advances in cultural psychology.(Information Age Publishing, 2013年,共編),『好意・善意のディスコミュニケーション―文脈依存的ソーシャル・サポート論の展開』(アゴラブックス,2010年)など。→Twitter(@omiyas)→webサイト

内田:

そこにポリシーみたいなものがあるわけですか。複雑な数字を使ってではなく,これも心理学の研究じゃないかというようなことですか。

Author_uchida-ryo内田良(うちだ・りょう):名古屋大学大学院教育発達科学研究科准教授。主著に,『ブラック部活動――子どもと:の苦しみに向き合う』(東洋館出版社,2017年),『学校ハラスメント――暴力・セクハラ・部活動―なぜ教育は「行き過ぎる」か』(朝日新聞出版,2019年),『教師のブラック残業――「定額働かせ放題」を強いる給特法とは?!』(学陽書房,2018年,共著)など。→Twitter(@RyoUchida_RIRIS) →webサイト

尾見:

心理学は複雑な統計解析で目くらまししている部分がありますよね。

内田:

心理学の学生は,学部の早い段階から複雑な統計を使いこなし,レポートや卒論を書きます。この人たちはリアルなものがわかっているのだろうかと思うことがあります。統計のことを勉強してそれを用いた分析の結果を書いているのですが,目の前の問題を抱えている人たちにどこまで向き合っているのだろうかと不安になります。

尾見:

あえて言えば,「向き合わないことに意味がある」と考えるわけです。数字とかデータで考えるということです。そういう習性があるので,心理学者は一部の人たちから嫌われるわけです。僕もそういうものに違和感をもって,学部生の頃は心理学を専攻しているのに心理学嫌いだったわけです。心理学がやっていることは変なんじゃないかという先輩がいて,大学院に進んだということもあります。

内田:

文化心理学と銘打っている時点でそうですよね。

尾見:

ただ文化心理学の主流の人たちは社会心理学から来ているし,国際的に第一線で活躍されていますから,そういう人たちから見れば私は文化心理学の中でも異端かもしれません。

いま気になっているのは,先ほど言った人権です。ただ,人権以外に言いようがない面もあります。

内田:

そうなのですよね。でも人権と言ってしまうと答えが全部出てしまいますから。

尾見:

色眼鏡で見られてしまうマジックワードだと思います。部活もそれと同じです。部活という言葉にそれぞれの人の思いが込められすぎているので,部活という言葉を使うべきかどうかと感じているわけです。

内田:

答えが先に見えてレッテルも貼られてしまいますし,好き嫌いも出てしまうということですね。深いですね。

尾見:

いや深いかはわかりませんが。

内田:

漠然とした理想を語りがちの教育学とは異なって,僕はエビデンスをきちんと見なければいけないと考えて,研究をしてきました。教育学者ですけど,教育学が嫌い。そして,尾見先生はエビデンスの世界から少し距離をとって,みんなのモヤモヤした気持ちを見ていかなければいけないと思われた。心理学者だけど,心理学が嫌い。面白いですね。根源的なところで重なるところがあるのは,とても面白いです。

尾見:

部活は僕にとって面白いテーマだったんです。この本の主張が一般の人にどこまで届くかわかりませんが,僕なりに心理学者として誠実に書いたつもりです。心理学者の中にはあやしい心理学者もいますし,いい加減なことを言う人もいます。そうではなく,できるだけアカデミックなスタンスで,しかも一般の人にも届けられるようなことはしたいなと思っていました。結果論ですが,部活はちょうどぴったりのテーマでした。

内田:

この本は相当読みやすいですよね。副題がややかたいので,概念の整理が多いのかなと思っていました。最初の方に概念の整理は少しありましたが,そのあとはずいぶんと読みやすかったです。

尾見:

最初の概念の整理も,編集の方に言われなければ書いてなかったかもしれません(笑)。

内田:

概念整理の部分は,僕にとっては非常によかったです。尾見先生の背後にある深い考えや意図がわかりましたから。一般の方には難しいかもしれませんが,そのあとの部分は非常にわかりやすかったです。そのことは大事なことだと思います。わりとこれまでアカデミズムは,先行研究をしっかり調べて1年後に実験や調査をして,またその1年後に発表するというのんびりしたサイクルの閉じた世界でまわっている。僕もそこで育てられて知識もそれなりにもっているのですが,いま生きている人たちにどれだけ変換して伝えていくかということが問われていると僕は思っています。僕自身,いろいろなところで話をしているのは,啓発活動でもあるのですが,学術的に説明できることをわかりやすく伝えるのも学者の仕事だと思っています。この本は最初に学者としてのスタンスを示しつつ,かつ非常に読みやすいですからいいですね。

尾見:

僕としては,いろいろな人がいてよくて,「学者たるものこうしなければならない」というのは嫌だなという感じですかね。最低限の論理や倫理観をもっていなければいけないと思いますが,その範囲の中ではあまり縛られずにやれるとよいのだろうなと思っています。心理学だけではなく他の分野を含めて世界レベルで変わってきていることとして,統計や検定でごまかしてきたことに関する問題提起が大きな流れとしてあると思います。ベイズ統計への着目もそうだと思いますし,数字だけではなく質的な研究が大事だという流れもあり,そちらには私も関わっています。

内田:

日本質的心理学会という学会がありますね。

尾見:

立ち上げから関わっていますが,いまは学会員が1000人を超えていますよ。

内田:

すごいですね。僕の知り合いの教育学者にも,日本質的心理学会に入っている人がいます。

尾見:

学会発足当初,研究交流委員会の委員長を任されていて,できるだけ心理学以外の人を会員にしようと工夫した自負があります。看護学とか教育学とか社会学とかいろいろな人に入ってもらいたいと。

ただ,質的研究の流派の中には,「質的研究はこうでなければいけない」という思いがとても強い人もいます。また,「地域が大事」とか「地域の声を聞く」というスタンスがあると思いますが,では本人は地元で何をしているのか,ということも感じることがあります。たいてい,フィールドワークや参与観察をしている人は,自分の居場所があって,そこからどこかの地域へ行って観察したり聞き取りをしたりしています。そして戻ってきて書くわけです。昔の文化人類学の調査もそうだと思います。しかし地元にも自分の生活があるわけです。これも結果論ですし偉そうに言えたことではありませんが,僕としては部活もそうだし,他にも学童保育に関わったり,PTAの副会長として八王子市とやりとりをしたりしてきました。PTAがいま社会問題にもなっていて,その研究も少ししているのですが,PTAを語るときには自分の経験がまずあるわけです。内田先生もそのうちPTAに関心が行くのではないかと思っていますが。余計なことですが,内田先生が部活の研究に入られる前,柔道事故の研究をされている頃に,そのうち部活の研究に行くのではないかと思っていました。

内田:

そうでしたか(笑)。

尾見:

同じ構造ですから。PTAも。

内田:

同じですよね。

尾見:

あれも人権問題ですし。内田先生になら人権問題と言っても大丈夫だと思いますが,政治的な意識の強い人だと人権と言ってしまうと抱きつかれるか唾を吐かれるかどちらかみたいな話になりますね。僕はたまたま自分の住んでいるところで,町会の理事もしました。ローカルなことをローカルな人に聞くという研究はありますが,自分もローカルに生きている存在ですから,そこで自分がどれだけできているかも大事かなと思っています。フィールドの地域をよくするとか理解するという研究がありますが,では自分の住む地域のことを理解しようとせずに,そういうことができるのかというふうに思っています。

内田:

まさにオートエスノグラフィー的な発想ですね。

尾見:

そうですね。たまたまそういう生き様をしてしまっているだけなのですが。

離脱を防ぐための「協調性」

内田:

本の中身について入りましょう。なるほどと思った一方で,どこまで深く読めているか自信がないので質問をしたいことがあります。第2章で甲子園のことを例に出しながら勝利至上主義のことを書かれているのですが,40ページの図に関してお伺いしたいことがあります。

僕もこのデータは見たことがあったのですが,「勝つことが大事だ」という教師が意外と少ないというふうに思いました。というのも,週に6日以上部活をやっているのは目標として勝つこと以外にないじゃないと思っていて,絆を深めるだけであれば週に3日でよいだろうと思いますし,週に6日以上やっているのはみんなよほど勝ちたいのだろうと思っていたのですが,それよりも協調性の方が高かったので気持ち悪いなと思ったグラフでした。尾見先生の本で,協調性が準備されていることで勝利至上主義の大きな土台になっていて,勝つことだけだと離脱したときに苦しい思いをするわけですが,協調性がその離脱の受け皿になっている,というように読んだのですが,それでよろしいでしょうか。

尾見:

そういうつもりです。ずるいなと思いました。勝ちたいのであれば勝つためにやれよと思うのですが,都合のいいときにだけ協調性を持ち出して,集団競技で試合に出られない人たちも部活に入る意味ができてくる。

内田:

勝利至上主義だけでなくて一途主義だって気持ち主義だってそうですよね。勝とうが負けようが「みんな一緒だよな」と絡めとっていくという説明は面白いなと思いました。

尾見:

複雑ですよね。だから教育の一環だと言い続けられているのだとも思います。

内田:

なるほど,たしかに。

尾見:

部活に対する批判をしても必ず逃げ道が残されているわけです。多面体なのでこちらをつつけばこっちが出てくる,別のところをつつけば別のところが出てくる。

内田:

プロの世界では「勝てなかったけれども一体感があったからよかった」では終われない。勝ってなんぼですからね。部活には負けたときの言い訳が準備されているから,どんな攻撃からも耐えうることになっている。(ノックアウト式の)トーナメントで,負けた子どもたちが離脱してしまっていたら,部活はここまで長続きしなかったでしょうね。本の中には4つの主義が出ていましたが,勝利至上主義だけで部活を批判できなくて,本当にうまくできているなと強く思いました。

根性論と気持ち主義

内田:

気持ち主義のところを読んで,僭越ながらどうしてこんなに考え方が似ているのだろうと思いました。いろいろな面で学問のアウトサイダーとしてやってきたからなのか,苦しんでいることをベースにしているからなのか,土台のところで重なるところがあります。とにかく部活をするみんなが考える仕組みを作らなければいけない。勝利至上主義とか一途主義で「頑張れ頑張れ」とやっていくのではなく,1回1回立ち止まって考えなければいけないのに,気持ち主義はそれを阻んでいるのだと感じます。考えることが大事だと本当に思います。そのあたりの先生の思いを伺ってみたいです。

尾見:

どちらかというと,日本の部活を説明するときに使われる代表は根性論だと思います。根性論は松岡修造さんですら(笑)否定していますが,「気持ち」という言葉はよく使います。あれだけ気持ちを強調する人が根性論を否定するのが意外でした。このことに代表されるように,根性と気持ちは違っていて,気持ちはもっと大きな概念だし,みんなを麻痺させる言葉だと思います。

内田:

そこを僕も聞きたくて,わざわざ「気持ち」という言葉を選んでいますよね。一途主義にしてもそうですが,すべて根性主義に置き換えようと思えばできると思うのですが,あえて特有のフレーズを振った理由を聞きたかったです。たしかに松岡さんは気持ちとは言っていますよね。

尾見:

根性論はそれこそいまの50歳代に代表されるスポ根世代のスポーツ観が染み付いている言葉だと思います。歯を食いしばって殴られても蹴られても頑張る,吐いてでもやるというようなものです。気持ちという言葉はそこまで強くはなくて,スポ根世代以外でも多くの人が説得されてしまう言葉ではないかと思います。一流のアスリートがすごく練習してきて最後どちらが勝つか負けるかというときに,「最後は気持ちですよね」と言われると,たしかにそうかと思いますし,否定はなかなかできない。気持ちは見えないですから。すごい形相をしていたのを「気持ちが入っている」とか言いますが,あれは勝ったからそう思うのではないでしょうか。気持ちというのはいい言葉で,何でも気持ちで言えてしまいます。

内田:

負けたときは「気持ちが足らなかった」と言われてしまいますよね。おかしいですよね。僕もそう思います。

尾見:

気持ちという言葉は英語にもフィットしないし,すごく便利な言葉として使われていて,体罰を否定する人にも受け入れられてしまう言葉なのではないかと思います。根性と体罰は,昔流のやり方と親和性が高い気がします。体罰を否定する人でも,気持ちという言葉を受け入れてしまうのではないかと思い,そこまで問題にしたかったわけです。

内田:

なるほど。根性論は最初から悪い意味がついていて,みんなも否定しますが,気持ち主義と言われた途端に入り込んでくるところがありますね。

尾見:

気持ちという言葉を対象化するのは意味があることかなと思いました。

内田:

ありますね。

尾見:

これまであまり垢にまみれていない言葉ですから。

内田:

言葉がいろんな意味を背負いすぎているという点では,「根性論」は「人権」と同じですね。答えが最初から決まっている気がしてしまう。あえて気持ち主義として距離をおきながら捉えてみたわけですね。

尾見:

そういうところはありますね。

内田:

一途主義や減点主義もそうでしょうか。

尾見:

減点主義はよく言われていることかもしれません。一途主義や気持ち主義は根性論として丸め込まれないようにしたというところでしょうか。一途な思いはいいじゃないかと思う言葉でもあるので,そこには大きな落とし穴があるということを言いたかったわけです。

内田:

僭越ながら,そういうところはまさに学者でありますね。

尾見:

そう言われると嬉しいな。

→第3回に続く(近日掲載予定)

2年半の在米研究を経て帰国した心理学者が,日本の部活(BUKATSU)に感じた違和感とは? 勝利至上主義,気持ち主義,一途主義,減点主義という4つの主義から,日本の部活を取り巻く文化的側面と,関係する人々の心理・行動を読み解く。日本の部活への文化心理学的観点からのアプローチ。