日本の部活(BUKATSU)のあり方を考える(1)

対談:内田良×尾見康博

中学・高校時代に運動部や文化部に入り,部活を経験した人も多いと思います。「青春そのもの」「仲間との一体感」「苦しい練習」「厳しい指導」など,個々人に強い印象を残す「部活」。日本の部活の特徴を文化心理学的な観点から検討する『日本の部活(BUKATSU)』を上梓した心理学者の尾見康博・山梨大学教授と,『ブラック部活動』などの著作があり,部活動を始めさまざまな教育現場の問題を指摘する教育社会学者の内田良・名古屋大学准教授が,日本の部活のあり方を議論します。

部活への文化心理学的アプローチ

尾見康博(以下,尾見):

最初に日本の部活に関心をもったきっかけについてお話ししますね。本(1)の中でも書いているとおり,2009年から2年半ほど,家族と一緒にアメリカで生活をする機会を得ました。子どもが2人いるのですが,彼らは英語がしゃべることができたわけではないですが,日本人学校も近くにはなかったし,現地の公立学校に行かせることにして,さらにスポーツや楽器を習いながら英語に親しんでほしいと思っていました。いろいろなことを経験させたのですが,子どもだけで行かせるわけにもいかないので,自分や妻が連れていき,そのときに現地の方とも交流ができました。その中で一番インパクトがあったのがスポーツの指導の仕方でした。

Author_omi-yasuhiro尾見康博(おみ・やすひろ):山梨大学大学院総合研究部教授。主著に,『日本の部活(BUKATSU)――文化と心理・行動を読み解く』(ちとせプレス,2019年),The potential of the globalization of education in Japan: The Japanese style of school sports activities (Bukatsu).(Educational contexts and borders through a cultural lens: Looking inside, viewing outside. Springer, pp. 255-266, 2015年),Lives and relationships: Culture in transitions between social roles. Advances in cultural psychology.(Information Age Publishing, 2013年,共編),『好意・善意のディスコミュニケーション―文脈依存的ソーシャル・サポート論の展開』(アゴラブックス,2010年)など。→Twitter(@omiyas)→webサイト

アメリカでのスポーツ指導を見ていると,一般的な日本人の感覚からすると生ぬるいとかゆるいように感じられ,どうしてこんなに楽しんでやっているのだろうと思いました。子どもたちは日本でもスポーツをやっていたので,違和感が多少あったかもしれませんが,2年もすごしていればそのことになじんでいました。その後,日本に帰ってきて学校の部活なり,地域のスポーツ少年団なりに入ったのですが,アメリカに行く前には知っていて経験したはずのことなのに,あまりの違いに愕然として逆カルチャーショックを受けました。おそらく向こうに過剰に適応してしまったのだと思います。その反動で衝撃が大きく,妻に言わせると僕が一番不適応になってしまいました。

そうした経験を何とか表現したいという思いがあったし,心理学と呼べるかどうかわからないけれども,一人の研究者として研究できる,あるいは研究しなければいけないというエモーショナルな思いが大きかったです。そもそもは,部活を研究しようなんてまったく思っていませんでした。非常にプライベートな体験ではありましたが,なんとかこれを問題意識化したいという衝動みたいなものを感じたということです。

また,部活研究でうまく科研費等の研究費を得ることもできたということも研究を推進する力になったというのもあります。

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内田良(以下,内田):

なるほど,そういう経緯なのですね。今回の本の内容を拝読しまして,最初にうかがいたいことがあります。この本のはしがきに「文化心理学観点からアプローチした」とあります。第1章では,比較文化心理学と文化心理学の違いについて書かれてあり,それについてはよくわかりました。文化心理学的な見方として,その文化圏にいる人たちがどう捉えているかを,統一したものさしでは見ることのできないというのは,そのとおりだと思いました。たとえば,教師が生徒を殴ることについて,「あってはならない」と見る文化もあれば,「それで子どもが成長する」と思う文化もある。殴ったかどうかという行動レベルだけでは見えてこないことが,たくさんあるわけですよね。比較文化心理学では1つのものさしを用意して,いくつかの文化を比較するわけですが,1つのものさしでは見ることができないと文化心理学では考えるのだなと思いました。比較文化心理学と文化心理学の違いについてはよくわかったのですが,心理学の中で社会心理学という分野もあると思います。文化心理学と社会心理学の違いについて教えていただけますか。

Author_uchida-ryo内田良(うちだ・りょう):名古屋大学大学院教育発達科学研究科准教授。主著に,『ブラック部活動――子どもと:の苦しみに向き合う』(東洋館出版社,2017年),『学校ハラスメント――暴力・セクハラ・部活動―なぜ教育は「行き過ぎる」か』(朝日新聞出版,2019年),『教師のブラック残業――「定額働かせ放題」を強いる給特法とは?!』(学陽書房,2018年,共著)など。→Twitter(@RyoUchida_RIRIS) →webサイト

尾見:

文化心理学にもいろいろな立場がありますが,この本の中では私の考え方を述べました。文化心理学を研究している人たちの多くは,もともとは社会心理学や発達心理学の分野の研究者たちだと思います。文化心理学という名前自体は昔からあったのですが,わりと新しい研究分野だと思います。

内田:

社会学は社会の構造の中で人がどのように考えているのか,とくに僕は本人がどう傷ついていたり苦しい思いをしたりしているのかに関心があります。そうしたことから,文化心理学や社会心理学についての本もこれまでに読んだことがあります。この本を読んだときに文化心理学と社会心理学の違いがまず気になりました。

尾見:

まず,社会心理学には心理学系の社会心理学と社会学系の社会心理学という大きな流派があると言われています。私は心理学の立場なのですが,よく言われるのが「社会心理学の社会知らず」というものです。

内田:

どういうことですか。

尾見:

一般の人が社会と思っているものを,社会心理学は見ていないじゃないかという指摘です。非常に小さい一対一から社会が始まるというように捉えていて,古典的な社会心理学の実験では他者ですらその場にいなくても実験ができていました。たとえば印象形成の実験などでは「陽気で几帳面な人について,印象をもってください」と指示されて,その人物に対する評価をする,そして1つの特性だけ言葉を変えた人物をまた評価するといったものがあります。実験刺激としてあるのは言葉だけで,実験参加者は想像して他者の印象を評定しているわけです。

社会心理学ではこうした非常に狭い空間の社会を捉えていて,社会にある複雑な特徴をなるべく捨象して捉えようとする。そこから,他者一般あるいは集団一般のことを考えるわけです。実験室実験が主流だったので社会をあまり見ないけれども,他者は少なくとも考えていました。他者がいることで人の行動が変わるとか,影響を受けるということを大事にした分野です。文化という話は大きすぎて,あまり考えなかったのではないかと思います。実験室でできる実験を日本やアメリカで行って比較するという比較文化心理学はありましたが,いわゆる文化研究は社会学の方で盛んだったのではないかと思います。

内田:

「社会心理学の社会知らず」というのは,実験が出発点だったということなのですね。

尾見:

少なくとも主流派の社会心理学はそうだったと思います。もちろんフィールドの実験もあって,スタンフォードの監獄実験というようなものもあるのですが,フィールド実験でも文化というものを考えるわけではなく,社会を抽象的なものとして捉えています。

内田:

それこそ尾見先生がとられているオートエスノグラフィー(2)という手法はかなり独自の路線というわけでしょうか。

尾見:

まあそうですが,とはいえ,世紀の変わり目くらいから大きな変化があって,実験だけでいいのかという問題や,統計的な事実は本当に客観的なのかという問題が指摘されてきました。私はどちらかというと,何でもありというか,多様性が大事だと思っていて,「こうでなければ心理学ではない」とか「こうでなければ科学ではない」というようなものに対するアンチをずっとはってきた歴史があります。私の手法は,エスノグラフィーとしては半端だし,文化心理学としても半端だから,エスタブリッシュされた学者のやりようとは思ってはいません。しかし,これは心理学を学んできた人間でないと書けないのではないかという思いはあります。

内田:

本の最初の方に尾見先生の文化心理学者としてのスタンスが書かれてあり,現場の学校の教師が読んでもストンと落ちることはないのかもしれないけれども,研究者として私にはかなりストンと落ちました。評価軸が1つのものはないということは体罰とも関わるし,この本で書かれている気持ち主義にせよ一途主義にせよ,明らかにおかしいと思うけれど,あるものさしから見れば本人たちはそれを満足してやっています。それが部活問題を難しくもしているだろうなと思っています。「体罰はいけない」とただ言うだけでは意味がなく,本人たちがじつは満足しながらやっているというところに着目しなければならない。気持ち主義にせよ一途主義にせよ,そこをきちんと理解しないといけないと僕はずっと思っています。

複雑な現象をどのように読み解くか

内田:

尾見先生とは昔にTwitterで連絡をいただいたことがあります。たしかずいぶん前のことだと思うのですけれども。

尾見:

教師の兼業規定を緩めるとよいのではないかということを書いたのだと思います。

内田:

それはどういうことですか。

尾見:

教員の中には部活の顧問をしたくて教員をやっている人が一定程度いますが,そういう人たちの思いを大事にしないといけないと思っています。また,学校から地域にスポーツ指導を移行しようと思っても,そういう人たちを活用しないと指導者が圧倒的に足らないとも思います。

子どもの本当のニーズから考えても,「指導をしたい」という思いはうまく利用すべきだと思います。ただしそれはきちんと対価を払ったうえでやってもらうべきだと思います。現在,学校の先生はアルバイトをしてはいけないことになっていますが,スポーツ指導に関してはアルバイトをしてもよいというように兼業規定を緩和してはよいのではということです。学校の施設も有効に利用すべきだし,部活の顧問をしたくて教員になっている人たちの思いをうまく生かして尊重できればと思っています。

内田:

まさに尾見先生の文化心理学的な見方ですね。僕もたんに右か左か,白か黒かというよりは,世の中はもっと複雑に動いていると感じています。部活を大好きな人もいるし,機会保障としても部活はそれなりに意義がある。子どもにも先生にも,部活をやりたい人がいっぱいいるわけだから,そこをうまくマッチングできるのであればした方がよいし,部活そのものが悪ではないということは同感です。部活に限らず教育の議論では,当の活動の問題点を指摘した際に,全廃論者のように扱われることが多いですが,尾見先生にしても全廃しようなんてまったく書いていない。むしろサステナビリティを高めていこうという話ですよね。そういうふうに話が進まないのが,部活や体罰だと思います。中身にあまり踏み込まず,表面的な次元での対立にとどまってしまう。

「部活」という言葉に込められた思い

内田:

尾見先生の本が私の中でストンと落ちた理由として,学問的なことのほかに,「負の影響を見る」ということが書かれてあったこともあります。僕も,研究であれ啓発であれ,まずは人が苦しんでいるところから出発したいと考えています。もちろん苦しい人から見ていくなかで,好きでやっている人も見えてくるので,最終的には広く見ることにもなるわけですが,やはり負の影響をまず考えることが大事だろうと思っています。尾見先生もそういうふうに問題を設定されていますが,そのバックグラウンドのようなものはあるのでしょうか。

尾見:

意外なところからの質問ですが,面白いですね。学問的なスタンスとも関わるのですが,あえてこうしないと変わらないという部分もあると思っていて,全廃論と言っちゃってもいいと僕は思っています。おっしゃるとおり,実際には全廃論者ではないのですが,「部活」という言葉が垢にまみれすぎているので,「部活」という言葉をやめてもよいと思っています。部活というものに対する思いを,多くの人が,とくにおじさんおばさんのスポ根世代が強くもっていて,そういう人には「部活というものはこういうものだ」という思いがあります。

私の子どもが部活をしていましたが,一緒に部活をしている子どもたちの親が部活について話すのを耳にすることもよくありました。「ゴールデンウィークに旅行に行くから子どもを休ませます」と誰かの親が話をしたらしいのですが,それに対してものすごい嫌悪感をもっている親がいました。とはいえ,気持ちはわかるんですよね。「部活はそういうものではない」「部活は苦しいものだし,苦しいから得られるものがある」という思いが,その世代にはあるのだと思います。その思いは,僕としてもわかるわけです。そういう意味で部活という言葉をやめた方がいいっていうことはあります。

内田:

尾見先生の部活の定義からそうですよね。ゆるく楽しんでいるものを部活というのではなく,過酷な部活に焦点をあてていますものね。そういう限定的な意味で,全廃論というわけですね。

尾見:

活動としてやめてしまうということにはならないということでしょうね。部活という言葉を残してもよいのですが,50歳代ぐらいの世代が思っている「部活」と違うものとして捉えなければいけないと思っています。それにはけっこうコストがかかる,つまり反発があるのではないかと思っています。

内田:

それは意識的なコストですか。

尾見:

そうですね。

内田:

言葉はいろいろなものを規定していきますからね。尾見先生がおっしゃるのは,「部活」ではなく「スポーツクラブ」と言い換えた方がいいというようなことですよね。そうなった途端に,お金を払うとか専門の指導者に指導してもらうということになる。それはあまり考えたことがなかったなあ。

尾見:

本の最後の方にL活動とH活動(3)について書きましたが,L活動は部活と呼んでもいいのだと思います。文部科学省が掲げているような自発的な教育活動の一環として,課外活動だとしても週に2,3回楽しみながら競技のレベルを上げていくようなものですね。全国大会を目指すわけではなく,地域の大会とか対抗戦をするとかだけにして,1つの学校ではチームができない場合は合同チームとして出るということもあると思います。ベースとしては楽しむ自主的な活動としてやるものは,文科省が言っている本来の意味での部活っぽいかなと思います。

内田:

僕も言葉にこだわる方なのですが,部活という言葉に付随するイメージをあまり考えていなくて,放課後の活動全体を指すものだと思っていました。しかしおっしゃるとおり,「部活」と言った途端にいろいろなものがついてきてしまう。

尾見:

課外活動を超えていますよね。ですので,海外との比較なんて単純にはできないですよ。ちょっと話はそれますが,実は,同じようなことを「人権」という言葉にも感じています。「人権」という言葉も垢にまみれすぎているように感じるんです。「人権」と言うと拒否反応を起こす人がいる。体罰やハラスメントの問題は人権問題であると思いますが,人権問題といった途端に拒否反応を起こす人がいて,それならば人権という言葉を使わない方がよいのではないかとも思っています。

内田:

すごい。とても共感します。教育学全般で人権は崇高な目標ですよ。でも,じつは僕も人権という言葉は,ぜんぜん使い慣れていません。というか,なるべく使わないようにしていて,それよりもできるだけ具体的に,当事者の苦しみを描き出すことに力を入れます。人権という言葉を出した途端に,すべてを言ったことになってしまうし,ともすると思考停止になってしまうようにも感じます。僕の印象ですけど,教育社会学全体でも人権という言葉をあまり使わないと思います。

尾見:

教育社会学は日本の教育学の主流ではなく,教育学のくせにデータで語るみたいなところがありますよね。内田先生もデータを出して,理論を展開されていますよね。

内田:

教育社会学全般がそうなのですが,答えや色が決まっているのではなく,数字でまずは見て,そこから考えましょうというスタンスです。僕は先輩から「人権という言葉からスタートするな」と言われていました。

第2回に続く

文献・注

(1) 尾見康博 (2019).『日本の部活(BUKATSU)――文化と心理・行動を読み解く』ちとせプレス

(2) オートエスノグラフィーとは,研究者自身の私的経験を対象化して詳細に記述する方法及びその成果物を指し,質的研究法の1つと見なされている。

(3) L活動はLife-span活動の略で,学校教育を終えたあとも含め,生涯にわたって楽しむことを目的とした活動。それに対してH活動はHigh-performance活動の略で,高いレベルでの技術の習得を目的とした,一種のエリート養成活動。

2年半の在米研究を経て帰国した心理学者が,日本の部活(BUKATSU)に感じた違和感とは? 勝利至上主義,気持ち主義,一途主義,減点主義という4つの主義から,日本の部活を取り巻く文化的側面と,関係する人々の心理・行動を読み解く。日本の部活への文化心理学的観点からのアプローチ。