「信念」と「落とし穴」

読者のみなさんには,まわりの人からすると「そんなおおげさな!」と思うことなのに,自分で自分を縛り,その縛りによって自分を追い詰めてしまうような経験はないでしょうか。『こころに傷を負うということ』を上梓した谷家優子氏がそうした「心理的な落とし穴」について解説します。(編集部)

谷家優子(たにや ゆうこ):2018年3月,兵庫教育大学大学院学校教育研究科人間発達教育専攻臨床心理学コース修士課程修了。現在,兵庫教育大学カウンセラー,京都文教大学非常勤講師,公認心理師。『こころに傷を負うということ――阪神淡路大震災被災者と臨床家のレンズから見るトラウマ』(ちとせプレス,2022年)を刊行。

心理的な落とし穴

「サイナビ!」に寄稿することになり,私はいくつかテーマを思いつきました。「子どもの性の話」とか「怒りの感情」とか「スティグマ・トラウマと薬物依存」とか「加害者にある被害者性」とか。

ところが,どのテーマをとっても,いざ書こうとするとなかなか筆が進みません。念のために書きますが,けっして書きたくないわけではありません。いやむしろ,書きたいことがいっぱいあるのです。それならなぜ進まないか?と自分に問いかけてみました。たぶん私は,気の利いたことを書かなきゃ!と考えていて,自分で自分を縛り,その縛りによって自分を追い詰めていることに気がつきました。

そんなおおげさな!と思われる人も少なくないでしょう。自分でもそう思います(笑)。ところが,他者から見たら取り立てて大きなことではなくても,本人にとってはおおげさな状態になることがままあります。きっと,思い当たる人は少なくないのではないでしょうか?

この自分の感覚と他者のそれとのギャップが,「心理的な落とし穴」になることが,私たちにはよく起こりがちです。そして,ある程度人生経験を重ねている人のほとんどは,その「心理的な落とし穴」に気がついているのではないでしょうか? それなのに,なぜこうも私たちは,同様の「心理的な落とし穴」にはまるのでしょうか?

話は少しそれて,みなさん本物の落とし穴を掘ったことはありますか? 最近のコドモはそんな無駄なことをする時間はないかもしれませんね。落とし穴なんて危険なものつくってはいけない!と考えるオトナも少なくないかもしれません。私は,じつは小学生の頃に近所の原っぱでつくったことあります,落とし穴。友達と一緒に,必死で穴を掘りました。そして,なぜだかそれが祖母にバレまして,こっぴどく叱られたことを覚えています。

たしかに,誰かがはまっていたら,漫画のようにスッテンコロリン,「イテテテテ! 誰だ!? こんなところに落とし穴つくったのはー!!」では済まなかったでしょう。しかし,そのときの私は,なぜ祖母にバレたのかが不思議であり,どこで誰に見張られているのかといささか恐怖を覚えたのでした。誰かが落ちるかもしれないというような想像は,一瞬だけしてワクワクしたかもしれませんが(小学生の感覚なので不謹慎はお許しを!),そんなことよりも,ただただ掘ることに夢中になっていて,落っこちた人が怪我をしたら?などという現実的な問題はまったく意識の外でした。どうやら本物の落とし穴も,掘ってる側からは,周囲が見えなくなって視野が狭くなる状態になりやすいのは,「心理的な落とし穴」と共通しているのではないか,などと個人的に思うわけです。

ところで,私が友達と必死で掘った落とし穴のその後が気になりますよね? じつはですね……えっと,思い出せないのです。祖母に叱られて泣く泣くせっかく深く掘った穴を埋めたかもしれませんし,そのまま放置し,善意のオトナによって埋められたかもしれません。万一はまった人がいたとすれば,この場を借りて心からお詫びします。本当にごめんなさい!!

「心理的な落とし穴」について考えても遅々として進まないのに,本物の落とし穴を掘ったときのワクワク感を文字に起こしてみると,この文章の落としどころなどはそっちのけで,いくらでも言葉が湧いてきます。とはいえ,宿題の作文や読書感想文,締切が迫った論文,仕事のレポートや報告書に困ったら,「おとし穴を掘ってみよう!」ということが言いたいわけではないのは,よい子のみなさんはすでにお気づきのことでしょう。

ということで,そろそろ話を「心理的な落とし穴」に戻しましょう。

私がここで「気の利いた」と表現しているのは,「濃い内容」を「理解しやすく」「記憶に残りやすく」「楽しんで」をひとことでまとめたイメージです。難しいことを難しく,重要なことをただ声を張り上げて伝えたところで,受け手に優しくはならないし,むしろ,苦行を強いることになりかねません。「読み手に優しく」を意識していざ書こうとすると,たちまち緊張して言葉が浮かばなくなります。

「どうせ誰も読まないよ」などと言って,悲しい励ましをしてもらったところで,それは悲しくはなりますが,まったく励ましにはなりません。その励まし方が悲しみだろうが喜びだろうが関係ないです。だって,先ほど書いたように,当の本人は現実的なことには目が向いていませんから。

それなのに,本来書かなくてはならないテーマから外れると,たちまちのびのびしたしなやかさが私に戻り,いくらでも言葉が湧いてきます。そして一気に書くことが楽しくなります。「書く」という作業そのものは変わりがないのに。これはいったいどういうことなのでしょう?

信念

私の思考を細分化してみますと,どうやら「専門家らしく」という前提があって,その上で「気の利いたことを書かなければならない」と自分で自分を縛り,その縛りによって自分を追い詰めているのではないか?という仮説が立ちました。「気の利いたことを書かなければならない」という信念だけでは,おそらく私はさほどプレッシャーになるものではないのではないか?「専門家らしく」という別の信念が加わることによって,このW攻撃が私に強いプレッシャーをかけているのではないか?それによって私は委縮してしまい,私からのびのびとしたしなやかさを奪っているのではないか?ということが浮かび上がってきました。テーマから外れるといくらでも言葉が湧き出てくるのは,「専門家らしく」という信念が不要になるからでしょう。

いずれにしても,はたから見ると,「どうでもいいこと」ですよね(笑)。私以外の人は,「どうせたいしたこと書いてないんだから何も気にすることない!!」と一笑に付しておしまいでしょう。そうなのです。本人にとって「おおげさなこと」の多くは,第三者から見れば「たいしたことない」ことであることが多いのです。そのたいしたことないことを「おおげさ」にしているのは私,「おおげさに反応している」のも私。これが,最初に私が書いた「心理的な落とし穴」の正体です。

ついついこの「心理的な落とし穴」にはまり込んで,立ち上がろうともがけばもがくほど深みにはまっていってしまったという人生経験を幾度も味わった人も少なくないと思います。これへの対処法は,自分自身を追い込んでいる信念(私で言うと「専門家らしく」「気の利いたことを書かなければならない」)を探り当て,まずはその信念を観察することからはじめてみると,いろいろ「目からウロコ」な発見ができて面白いと思います。この「目からウロコ」については,近日発刊予定の『こころに傷を負うということ――阪神淡路大震災被災者と臨床家のレンズから見るトラウマ』(1)にも触れていますので,ぜひお読みいただければありがたいです。

ということで,めでたしめでたし~,これでおしまい~とシメたいところですが,じつは,まだ先があるのです。ここからが重要なので,最後までおつき合いくださいね。

深くて暗い穴に突き落としもするし,そして救い上げてもくれるものとは

「そんなおおげさな!」「気にしすぎ!」などという他者からの言葉が,先述のように笑い話ではなく,深刻な問題を投げかけることがあります。時にこのような言葉によって傷つけられることが,私たちにはしばしば起きます。自分の感覚と他者のそれとのギャップが生じているのは同じなのですが,先述の話とはまったく異質の状況が起きています。

ではどういう状況と思いますか? ……そうです。何らかの被害を受けたときに起こりやすいのですね。そして,この言葉をかけられた側は,場合によっては「二次被害」になります。

個人に何らかの被害が起きた時,そのダメージを他者が的確に推し量ることは,じつはとても難しく,多くの場合は本人が受けた実際のダメージよりも軽く考えてしまいがちです。それゆえ,「そんなおおげさな!」「気にしすぎ!」などという軽い言葉が出てきてしまいやすくなるのですが,これはたとえ悪意がなくても,励まそうという意図であっても,可能な限り避けたい言葉です。

そして,自分の感覚と他者のそれとのギャップが生じていることは自覚されやすいため,たちまち新たな精神的なダメージが上乗せされてしまいやすいです。他者,とりわけ身近な存在に軽い言葉をかけられてしまうと,まるで「深くて暗い穴」に突き落とされ,このまま誰にも気づいてもらえないような孤独感と絶望感が襲ってくることもあります。

被害が起きた場合は,「たいしたことのないことを『おおげさ』にしているのは私,『おおげさに反応している』のも私」の真逆になると言っても過言ではありません。「はたから見ると,『どうでもいいこと』」という状況であっても,その状況に置かれている人にとっては,大変深刻な状況にいることが多いということを,私たちはいつもこころに留めておきたいものです。

私たちは,さまざまな場面で自分の感覚と他者のそれとのギャップを経験し,そのギャップに気づいて「心理的な落とし穴」から脱出することがある一方で,ギャップを知って「深くて暗い穴」に突き落とされることも起きます。いずれの場合でも,このような自他のギャップは,限りなく小さい方が良いのでしょうが,ギャップが生じるからこそ他者との関係を丁寧に紡いでいきたいとも考えるきっかけにもなります。そう考えると,あながちギャップが悪玉とは言い切れませんね。

時には自分を支え,鼓舞してくれる反面,自分を縛り,その縛りによって自分を追い詰めることもある自分の「信念」。自分を「心理的な落とし穴」にはめ,「深くて暗い穴」にも突き落とし,そしてそこから救い上げてくれているのも,じつは自分の「信念」なのかもしれません。

注・文献

(1) 谷家優子 (2022).『こころに傷を負うということ――阪神淡路大震災被災者と臨床家のレンズから見るトラウマ』ちとせプレス

何が私とあの人の運命を分けたのだろうか? 被災し、サバイバーズ・ギルトに苛まれた一人の臨床家。被災者と臨床家のレンズが交差するところから見えてきた、災害によるトラウマの様相、ケアとサポートのあり方とは。


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