心理学から見る文化/文化から見る心理学(2)
鼎談 サトウタツヤ×尾見康博×木戸彩恵
Posted by Chitose Press | On 2019年07月30日 | In サイナビ!, 連載文化を記号として捉え,文化との関わりの中で創出される人の心理を探究する文化心理学。『文化心理学』を編集したサトウタツヤ・立命館大学教授,木戸彩恵・関西大学准教授,『日本の部活』において文化心理学的アプローチから部活を分析した尾見康博・山梨大学教授が,文化心理学の醍醐味と今後の展開を語ります。第2回は日本の部活の文化心理学と,文化心理学の方法論について。
「日本の部活」から見る文化
木戸:
話を進めますが,尾見先生の『日本の部活』(1)も文化心理学ですよね。「ボトムアップに研究をしていく方向で」と書いておられましたが,尾見先生の場合はどのような点を重視されていたのですか。
木戸彩恵(きど・あやえ):関西大学文学部准教授。主要著作:『化粧を語る・化粧で語る―社会・文化的文脈と個人の関係性』(ナカニシヤ出版,2015年),『社会と向き合う心理学』(新曜社,2012年,共編)。
尾見:
昔からあちこちでタツヤさんがシンポジウムをしているときに,いろいろな人から「文化はどこにあるのか」と言われていたのですが,自分なりに思ったことは,文化というものは結果的にしみ出してくるものだと思っていて,見えなければ文化ではないだろうと思っています。最初から文化をおくのではなくて,結果から見えるものが文化なのではないかと思っていました。そのためには,他の文化を知らないと自分の文化を相対化できないとは思います。アメリカに行ったおかげで,日本の部活の文化に関して,これは文化としかいえないだろうと感じました。
尾見康博(おみ・やすひろ):山梨大学大学院総合研究部教授。主著に,『日本の部活(BUKATSU)――文化と心理・行動を読み解く』(ちとせプレス,2019年),The potential of the globalization of education in Japan: The Japanese style of school sports activities (Bukatsu).(Educational contexts and borders through a cultural lens: Looking inside, viewing outside. Springer, pp. 255-266, 2015年),Lives and relationships: Culture in transitions between social roles. Advances in cultural psychology.(Information Age Publishing, 2013年,共編),『好意・善意のディスコミュニケーション―文脈依存的ソーシャル・サポート論の展開』(アゴラブックス,2010年)など。→Twitter(@omiyas)→webサイト
木戸:
高校生に対してこの本の内容について話をしたときに,気持ち主義にみなさん食いついていて,「ああそうだよね」と共感しながら聞いてくれたようです。「気持ち」はとても日本らしいなと思いました。
尾見:
たぶん,気持ちって英語にしにくいと思います。名古屋大学の内田先生と対談をしたときにも話をした(2)ことですが,今は根性論や根性主義は批判されるようになっています。でも,「気持ち」に関しては否定する人がいないように思います。松岡修造さんも根性論は否定しているけれども,「最後は気持ちだ」と気持ちという言葉は使っている。気持ちに関しては,みんなまだ相対化できていないのではないかと思いました。そういう意味で「気持ち」という言葉で考えるのはいいのではないかと思いました。
木戸:
本当にみんな関心があるようでした。
尾見:
「気持ち」って言えば,説明した気になるじゃないですか。「最後は気持ちだ」「気持ちで勝ちました」「気持ちで負けないように頑張りました」とか。
木戸:
あと,先輩・後輩関係のところも,よくわかったと言っていました。終わった後も質問に来た高校生がいました。
尾見:
関係するかわからないのですが,また記号のことで伺いたいことがあります。部活の指導者が指導として部員に「死んでいいよ」というようなことを言う場合に,多くの生徒は受け流すわけですが,それを真に受けて,重い言葉として受け止める人がたまにいます。もしその生徒が自死するような方向に働けば,それは促進的記号だということになり,受け流す場合は抑制的に働いたことになりますか。
サトウ:
死ぬことを抑制してはいないでしょう。無視だよね。
サトウタツヤ(佐藤・達哉):立命館大学総合心理学部教授。主要著作:Making of the future: The Trajectory Equifinality Approach in cultural psychology(Information Age Publishing,2016年,共編),『心理学の名著30』(筑摩書房,2015年)。
木戸:
記号として働かなかったということでしょうかね。
サトウ:
「死んでいいよ」という音から何を読み取るかというときに,それを無視するわけでしょう。
尾見:
記号として働いていないということですか。
サトウ:
そうだね。小学校のとき体育の時間にふざけていて先生から「頭冷やしてこい」と言われたことがあります。その時,雨が降っていたので,雨樋から落ちてくる水で頭を冷やして,次の授業に遅れて教室に戻ったら怒られた。その時は冬だったので「ストーブの近くで頭を乾かせ」と言われた,というような経験があります。
尾見:
まさに同じことだよね。物理的な刺激や事象であれば意図はないですが,人と人の間であれば意図がありますよね。生徒に対して「死んでいいよ」と言った場合に,実際に死ぬことは意図していませんよね。促進的記号として考えている音声が相手にとってそうならないときとか,逆に発言する人は意図していないのに促進的記号として行動が促進されることがあるということでしょうか。
サトウ:
ソシュールの記号論でいえば,意味するものと意味されるものとがあって,音は言語で,言語は意味するものです。そこにパースが三項関係として解釈項を入れたことで,解釈の違いについて扱えるようになった。記号から見たときに,1つの音は他のものに解釈されうるということでしょう。でもそれは記号から見たときであって,「死ね」と言った人からすると「死ね」を励ましの言葉として言うこともあるし,自分の感情をコントロールできなかったことを「死ね」という単語の音声に乗せたということもあるわけですが,それを相手側が別の意味として解釈するだろう(字義通りには解釈しないだろう)と思いながら話している。そして実際,それを言われた人も,「死ね」と言われたけれども,自分のことを励ましてくれていると解釈するということもある。パースとか,ヴァルシナー的に考えないと難しいのではないかというのが到達点です。
尾見:
『文化心理学』の189ページに,「異なる文化は,価値が違っているのではなく,記号のレベルが異なっている,ということになります」とあります。これは,記号は一緒なのだけれど受け止めが違うということでしょうか。ただの音声や事象などの共有できるものが記号で,生きてきた文脈でいろいろな受け止め方がされると言うことですか?
サトウ:
とくに異文化環境だと,同じ状況が,それぞれ過去の経験でしか解釈されない。
木戸:
先生がおっしゃる「異文化」っていうのは,国の違いではなく,同じ国でも異文化があるということですよね?
サトウ:
その通り。たとえば,何人かで一緒に飲食して誰かが支払いをするという状況を考えてみましょう。私と尾見(敬称略)が若い時分にお世話になっていたある研究会の話をしましょう。研究会のあとには飲み会があったのですが,その支払いの時に毎回ひと悶着があった。ある先生ともう一人の先生は毎回,学生よりも多めに出してくれようとするのですが,別の先生が「それはよくない」と言って毎回止める,ということがありました。同じ宴会という状況でも,それまでの経験から「教授が院生より多く払う状況だ」と思う人と「院生も教授もみんなが同額払うべきだ」と思う人がいる。そのときに2人の価値が違うと思ってしまいがちですが,そうではなくて記号が違うのだということです。価値のレベルは,「みんなが仲良く,次も集まって研究会も飲み会もしたらいい」ということで同じだけれども,記号のレベルが違っているということではないかという話です。
比較を超える文化研究
――尾見先生の『日本の部活』と『文化心理学』とで,文化の捉え方に違いはなかったですか。
尾見:
僕はこんな格調高くはなくて,記号なんてことは1つも使ってないし怖くて使っていないです。
木戸:
あえて使わなかったのですか?
尾見:
あえてというか,理論的なことは最初から抑えようと思っていました。編集の方から文化心理学のことをちょっとは書いた方がいいということを言われて,ようやく書いたといったレベルです。
木戸:
ボトムアップに扱うということですね。
尾見:
文化心理学に関しては,この本を含めて文化心理学の本をいくつか紹介するにとどめました。ただ比較文化心理学がつまらないとは思っていて,後づけで日本がこうだという研究はこれまで山ほど見てきて,結果が決まっていてもともとのステレオタイプでそれを説明するだけですよね。だからこの本にあるような,「○○から見る文化」と「文化から見る〇〇」は面白いとは思いましたが,「文化から見る○○」はまだ発展可能性があるかなと感じました。制度とか歴史とかについてもう少し調べられるのではないかなと。場合によっては外国の制度との対比をしてもよかったのかなと思います。ただ,それは普通の心理学者には難しいことですよね。そこまでなかなか手がまわらない。タツヤさんぐらいですよ。
サトウ:
比較文化心理学で比較だけをしても,きりがない。結城雅樹(敬称略)のエモティコンの研究(3)は面白かったですが,あれをいろいろな国の総あたりでやったらきりがない。そうそう,木戸(敬称略)は恋愛の章(4)はもう授業でやった?
木戸:
今週の予定ですが,まだやっていません。
サトウ:
あの中で,別れるときに「男の子は他に好きな人ができて別れるけれど,女の子はその人を嫌いになって別れる」という話が書いてありました。
木戸:
つまり,「男の子はもっと好きな子ができたからそっちに行っただけで,また気持ちが変われば戻ってくるけれども,女の子は嫌いになったわけだから戻ってこない」ということを書きました。
サトウ:
ただ,そういう説明だと男女の比較になってしまうので,逆に書く必要があったのかなと。
木戸:
つまり,別れ方には嫌いになって別れるやり方と他に好きな人ができるやり方と2つあって,クラスター分析をかけるとこっち側は男性が多くてもう一方は女性が多い,ということになるということですね。こういうやり方を文化心理学の方法として大事にする必要がありますね。
サトウ:
たとえば,親子関係を調査した研究で,ある国でとったデータを日本と比較してしまうと,「なぜその国なのか」「制度が違うじゃないか」といろいろと言われてしまうわけです。そうではなくて,親子関係をすべてデータとしてまとめたうえで,クラスターとして分けた場合に4つのクラスターができて,国籍情報を外挿(スーパーインポーズ)してきたらこういう感じになりました,というような方法を確立すべきだとも思っています。
尾見:
比較文化心理学の研究を行ったアメリカやヨーロッパの人たちは,自分たちを知るためにアジアと比較したのではないかと思うんです。日本で比較文化をするのであれば,日本のことを知るためにやればいいと思っています。その際,比較するのはどこだってよくて,もし「その国はアメリカとも違う」と言われた場合には,「いや日本のことが知りたいわけですから,その国と日本を比較しました」と言えばいいのではないかと思うんですよね。基本的には自分のことを知るために比較をする。
サトウ:
親子関係が現実に存在していて,親子関係をどう評価するかということもそれぞれの国であるわけです。たとえば,「親がうざったい」という項目を聞いて,その国と日本でどう違うかを見るのはただ比較になるわけですが,1点~5点に対して,日本とその国とで何人ずついるかを比べて理解することが,日本を理解するということになるのですか。
尾見:
「親がうざったい」という項目を日本で調査をしたとき,それに対して肯定する回答者が多くて,しかもそれが日本人の常識に合うとするとそういうことになってしまうかもしれません。そうではなく,2カ国を比較して分布が常識とは違いましたというときは,解釈が難しい気がします。「親がうざったい」と言っている割合が他国に比べて多いけれど,日本の常識では実際にはそんなことはないということがあると思うんです。でも,「うざったい」が指している具体的な事象がそもそも2カ国で違っているかもしれないんですよね。そういうときに具体的事象を調べることによって,むしろ日本文化を深く理解することにつながるかもしれない。
サトウ:
お小遣い研究(5)でよかったのは,「賭け事が悪いと思うか」という質問項目があって,賭け事は悪いとどの国でも思っていて,その項目と相関するものが悪いということになっていました。そういうマーキングみたいなものがあればいいよね。「親がうざったい」と言ったときに,その項目だけだとわからないわけなので,他との関係を見て明らかにしていく。日本とその国とを分けた箱で理解するのは比較文化心理学で,そのパターンに属性を振り分けていくのが文化心理学だと。
わかりやすく言うと,賭け事にお金を使うことがいいか悪いか,ゲームセンターに行くのがいいか悪いか,友達のために金を使うのがいいか悪いか,といったことを聞いたときに,ゲームセンターに行くということが賭け事と相関している人たちと,ゲームセンターに行くということが友達に本を買ってあげるのと同じように良いことだと思っている人たちと2パターンがある。AパターンとBパターンのクラスターがあったときに,ある国では80対20に分かれて,日本では20対80になるというようなやり方です。
尾見:
僕はどちらかというと,むしろ言葉が通じないことが文化だと思うんです。つまり“「うざったい」がどういうことか伝わらなかったので,この項目を除いた”と書いてありましたが,それこそが文化なのではないかと。最初から次元的にあてはめてしまうのも1つの手法だけれど,文化のきめ細やかさというか,かなめとなるのは違うのではないかと思いました。
サトウ:
そうした手続きこそが,心理学病だよね。みんなが同じ回答だったら相関しないわけだからね。だから除きましょうと。項目を削るということには2つ意味があって,わからないことには答えられないので,ない方が良いということと,現実にみんながあてはまらないことを答えると,この項目と他の項目の相関が出ずに因子分析の際に結局外すことになる。心理学で研究をしている以上,非本質的な文化の差異しか取り出せないということは合意しました。
部活文化の研究
尾見:
それに関連して言うと,日本の教師がいかに忙しいかとあちこちで言われていますが,OECDの調査でも「1週間で課外活動に割いている平均時間について,日本が他の国に比べていかに多いか」ということがわかっています。日本の教師は多忙で,課外活動なのに部活に時間を割いているから部活をどうにかしなければいけないということなのですが,重要なことが欠けています。他の国でも日本でも,その調査では夏休みの活動時間が一切考慮されていません。欧米とか海外の国では夏休みは休みなので,基本的には課外活動をするはずがないわけです。しかし日本ではむしろ夏休み期間中に多い。1年間のトータルの課外活動の時間を見れば,OECDが測っている活動時間どころではない。OECDの調査では甘いと僕は思うわけです。ただそれは,共通の次元で「1週間に土日を含めてどれだけ課外活動をしているか」を聞けば比較できる,という単純な発想でしょう。日本に関しては夏休みを入れなければ,他の国との比較をしたことにならない。
木戸:
授業期間中の時間を聞いているわけですね。
尾見:
日本はむしろ夏休みが強化期間で,練習試合や対抗戦をたくさん入れますし,1日中練習します。夏休みの宿題をいつやるのかと思うほどです。共通の物差しで見ようとすると独自性が省かれてしまう例です。夏休みに課題活動をすること自体が,外国から見たら非常に驚きなわけです。それこそが日本の文化です。
サトウ:
夏休みに練習しないと,弱くなっちゃうし筋力も衰えちゃうからね。第一,部活がなかったら暇じゃないか(笑)。
尾見:
親はそれで助かっていると聞くことがありますね。アメリカは逆に夏休みが長く,宿題もないので,2カ月半を子どもとどうやって過ごすかということが大きな課題になっています。デイキャンプとかにお金を払って行かせたり,スポーツを朝から夕方までやらせたりします。
木戸:
部活があると休めないので,家の用事があっても「休みます」と言えない現状があると尾見先生の本に書かれてありました。
尾見:
課外活動なのに休みがないというのは不思議ですよね。この前,山梨大学の大学院の授業で,受講生が一途主義に関して言っていたのですが,部活の他に生徒会もやりたかったのに,「部活をやりたければ諦めろ」と顧問に言われたらしいです。生徒会は学校の正規の活動なのに,それよりも課外活動が優先されている。スポーツ強豪校では「授業なんかどうでもいいから」と言うこともありますし,よく考えたら変ですよね。
サトウ:
逆に,立命館大学などは,授業を優先するようになってきている。大学では留年する権利が今の学生にはあまりない。実は今ソフトボール部の顧問をしているのですが,ソフトボール部の新聞を見ていたら,「今期は主軸の誰々が単位不足で出場できない」とか書いてありました。取得単位が少ない人は試合に出られなくなっています。じゃあ,何のためにスポーツ推薦で大学に入ってきたのか? 不器用な子とか今年は部活に賭けたいという子もいるだろうから,その辺は緩やかにやってほしいですね。
尾見:
こう言っている僕だってアメリカの親とはやはり違います。日本では他の親と比べて日本の部活に対しておかしいと思ったほうですが,それでも自分の子どもを叱ることはデフォルトですよね。「なにやっているんだ,バカ」とか言葉が出てしまう。アメリカの人たちはひたすらほめます。どれだけ失敗してもほめる。日本では,まず自分の子どもを悪く言って,誰かに子どもをほめてもらう。これを私は投映的賞賛と呼んでいます。本当は自分の子どもをほめたいのですが。そうせずに誰に言わせるという,ものすごく面倒くさいほめ方です。それが記号の体系だから,そこからずれるとおかしなことになってしまう。
サトウ:
そこだけ見ると日本は面倒くさいけれど,アメリカだって面倒くさいところはあるからな。
尾見:
それはそうですよ。
サトウ:
たとえばヤーン(ヴァルシナー)がアメリカのクラーク大学教授だったとき,たびたび彼の自宅に泊めてもらったことがあるけれど,家には拳銃があったかもしれない。アメリカじゃ皆,自衛のための銃は持つことが許されているんだし。そう思うと複雑な気持ちにもなるね。
木戸:
それこそ私たちにとっては記号としてそれが見えない。
尾見:
モデルガンだと思っちゃいますよね。
サトウ:
実際にヤーン(ヴァルシナー)に聞いたことはないから,何とも言えないけどね。
文献・注
(1) 尾見康博 (2019).『日本の部活―文化と心理・行動を読み解く』ちとせプレス
(2) 「日本の部活(BUKATSU)のあり方を考える(1)―対談:内田良×尾見康博」サイナビ!
(3) Yuki, M., Maddux, W. W., & Masuda, T. (2007). Are the windows to the soul the same in the East and West? Cultural differences in using the eyes and mouth as cues to recognize emotions in Japan and the United States. Journal of Experimental Social Psychology, 43, 303-311.
(4) 木戸彩恵・サトウタツヤ編『文化心理学』第2部第1章②参照。
(5) 木戸彩恵・サトウタツヤ編『文化心理学』第2部第6章①参照。
高橋登・山本登志哉編 (2016).『子どもとお金―おこづかいの文化発達心理学』東京大学出版会
人に寄り添う文化と人の関係性を描く。文化を記号として捉え,文化との関わりの中で創出される人の心理を探究する文化心理学。その理論や歴史を丁寧に解説し,ポップサイコロジー,パーソナリティ,学校・教育,自己,法,移行に関する12のトピックについて,文化心理学の見方・考え方を各論として紹介。方法論もカバーした決定版。