心理学が挑む偏見・差別問題(3)

社会問題への実証的アプローチ

北村:

「あとがき」にも少し書きましたが,最初はステレオタイプや偏見をしようと思っていたわけではありませんでした。自分としては主観的にディスコミュニケーションが起きることが多いように思っていて,いまでも「空気が読めない」と感じることがあります。自分が悪いのかもしれませんが,誤解された決定的瞬間が無数にあり,それがしばらくは忘れられず,悔しい嫌な思いをしました。たいていは,そういうつもりで言ったわけではないのに,相手に決めつけられたり,自分が言う前に「お前はこういう意見だろう」と決めつけられたりすることがありました。自分は教育心理学から社会心理学に移りましたから,まだ人間関係ができていない段階でいろいろと誤解があったように思います。いい例ではないかもしれませんが,この本でも紹介されているフィスクが提示したステレオタイプ内容モデルでは,ステレオタイプの内容には有能さの軸と温かさの軸とがあり,有能さの軸と温かさの軸が逆相関して見られがちだとしています。両面価値的セクシズムでは「有能で冷たい」のはキャリア女性で,「有能ではないが温かい」のは伝統的な女性とされて,慈愛的差別だと言われます。このモデルに基づけば,自分は成績がよくて,実際にディスコミュニケーションするので,性格がよくないと決めつけられるおそれがあるわけです。

Author_kitamurahideya北村英哉(きたむら・ひでや):東洋大学社会学部教授。主著に,『社会心理学概論』(ナカニシヤ出版,2016年,共編),「社会的プライミング研究の歴史と現況」(『認知科学』20, 293-306,2013年),『進化と感情から解き明かす社会心理学』(有斐閣,2012年,共著)など。

高:

利己的とか,他人を蹴落としているとか。

北村:

他人からの決めつけには抵抗感がありました。痛切に差別を受けている側からすると,たいしたことのない話かもしれませんが,私としては,体験しないとわからないような「成績がよい者に対するマイノリティ差別」もあって,社会的に普通ではない扱われ方をされるように思います。臨床心理学を目指していた頃は,「東京大学の学生相談所でカウンセリングがしたい」と思っていたところはありました。私立学校からやってきた東大生の独特の悩みが自分にはよくわかるのではないかと幻想を抱いていた時期もありました。高校はあそこで,住んでいるところはあそこで,鼻もちのならないとんでもないやつだ,とステレオタイプが二重にバインディングされるところがあり,そうしたことがずっと引っかかっていました。いまから振り返ると,はじめての社会的認知研究は,自分ではステレオタイプの研究だとは思っていなかったのですが,技術系の研究所への勤務に適するかという理系で頭がいいという視点と,親しみやすく人柄がよいという視点で分けた場合に,記憶している内容が異なる,というものでした。

唐沢:

中学生や高校生の年代は,本人にとっては学校が強烈な社会的アイデンティティですから,それがもつラベルはポジティブにもネガティブにも一番感じやすい年代でしょうね。

北村:

恵まれている要素がある偏見の場合は,差し迫ったことに見えないので軽く扱われることもありますが,ひどくなると社会の中で孤立して自殺を招く場合もありますよね。子どもの場合は世界が狭いですから。どのような場合でも,排除されるということはつらいことです。自分の場合とはかなり違いがありますが,できる子がいやがらせを受けて居づらくなるといったことは聞くこともあります。そればかりが原因でないかもしれませんが。

唐沢:

恵まれない立場やハンディキャップがあることから受ける偏見や差別はとんでもなく不当ですが,ちょっとすぐれたところがあると偏見や差別を受けてつぶされるというのは,これもたぶん日本社会の弱点なんでしょうね。陰湿な形で,見て見ぬふりをする。ほかにも同じような社会はあるでしょうけれど。

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北村:

大人社会では利得が絡むので,アメリカでもできる人の足を引っ張るということはなくはないですね。アメリカ人ができる人にまったく嫉妬をしないかというとそういうことではないですしね。

唐沢:

ただ,自分より優れた人がいた場合に足を引っ張ったら自分が上に行ける,という動機であればわかりやすいですが,先ほどの話はそうではないですよね。杭が出ていることが気に食わないのでしょう。数からいえば,優れたところがあるために偏見や差別の対象になっている人は少数でしょうけれども,あるとは思いますね。

私が偏見や差別の研究を始めたきっかけとして,その頃は社会心理学において集団の問題を扱うということがどんどんと衰退していって,「社会」心理学ではなくなりつつあったことも理由でした。

北村:

一番衰退していましたよね。日本社会心理学会のシンポジウムでも「集団研究は終わった」というようなものがありました。

唐沢:

これからどんどん個人のレベルに還元されていくという雰囲気でした。その中で,偏見や差別の問題は,集団の問題を扱えることが魅力でやりたいなと思ったのはありました。

高:

心理学自体が生理学などに還元できるのではないかと言われ始めてずいぶん長いですね。

唐沢:

還元した方がわかった気になるということがあるのでしょうね。先ほどの北村さんの話にもありましたが,自分のテーマがステレオイプだと思って研究していた人は,いまほどは多くなかったと思います。分野自体がちょうどその頃に盛んになり始めたので,その流れと自分の関心がうまくあったということはあります。当時は,偏見そのものを研究することはほとんどなかったのではないかな。アメリカの教科書などでは偏見の章もあって,権威主義的パーソナリティの話から始まっていたりしましが,「時間があれば読むか」くらいの感覚でした。原因帰属過程や態度の研究をやっていた頃は,世の中のどろどろしたものを扱ったからといって,それが研究なのか,と思っていたのかもしれない。実際に,偏見や集団間に関する研究は当時の日本ではほとんどされていなかったと思います。

北村:

認知的なパースペクティブからすると,ハミルトンのイリューザリー・コラレーション(錯誤相関(2))の研究がクールな切り口でした。

唐沢:

1981年にCognitive processes in stereotyping and intergroup behavior(3)が刊行されて,すごく新鮮でした。そういう時代ですから,ステレオタイプの研究をそういう名前では呼んでいなかったですね。社会的アイデンティティ理論もまったく知られていませんでした。自分の関心と研究の動向がマッチしていたのはあったと思います。

高:

私が大学生だった2000年くらいには,日本でステレオタイプや偏見を研究していた方の多くは実際の現象を解明することよりも認知的プロセスを解明することに重きを置いていました。そういう中で私が偏見の研究を始めたときも最初は潜在的偏見の研究でした。私が直接していたのではなく卒論生の指導でやったのですが,やっているうちに,日本では潜在的偏見以前に顕在的な偏見についてもよくわかっていないことがあると思い,先にすることがあるなと,だんだんとそちらにシフトしていきました。私の時代も,自分の限られた観測範囲ではありますが,潜在的偏見に対する関心はあるけれども,内容についてはあまり関心がないような気がしました。

唐沢:

その頃はまだそうだったと思いますね。

北村:

潜在研究をやろうとしていたら,世の中ではどんどんと顕在化しているじゃないか,ということはありますよね。


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