あなたは障害者をどう思いますか?――身近な問題としての偏見や差別(4)
Posted by Chitose Press | On 2017年01月30日 | In サイナビ!, 連載しかし一方で,私たちは,身近にいない人たちのことを想像する力もある。私と違う「彼・彼女」の視点に立つ力もある(正しいか否かはおいておいて)。
障害者運動の中で「Nothing about us, without us!(私たち抜きに私たちのことを決めないで!)」というスローガンが掲げられてきた。自分のことを自分で決める権利が奪われ,当事者抜きに物事が決められることへの抵抗である。「私」と「あなた」が異なる,ということを踏まえずに物事を進めることは,上位の者が下位の者をコントロールし,同化を迫ることにもなりうる(7)。
「私たち」の中には実際,それぞれが「私」という核をもった個人がいる。個人個人の違いを平板化した集団を「私たち」と考えるか,個人個人の独立性や主体性を踏まえた「私たち」と考えるかで,社会のあり方は大きく異なる。
おわりに
筆者は,障害者に対する偏見・差別の問題は,障害者の問題を超えて,私たち社会をどういう社会にしていきたいのかという全体的な議論に関わるものと考える。
私たちの社会は人と人との相互作用によって成り立っている。常に誰もが,人を助け,人に助けられている(それがわかりやすいか,わかりにくいか,という違いはあるが)。逆に,助けを必要としているときに助けてもらえなくて,つらい思いをしたこともあるだろう。また,障害のある人から頼みごとをされ,余裕がなくて面倒に思ったり,私も大変なのだから自分でやってくれと思うこともあるかもしれない。そのような思いには,障害者だけでなく,健常者の「助けてほしい」というサインが表れている。
「障害者を排除する社会は,障害者にとっても健常者にとっても不幸である」「障害者を排除する社会は弱い社会である」と主張されることがある。これはどういう意味なのだろうか?
いわゆる障害者に関わる問題は,障害という鏡を通して社会の問題を映し出している。また,社会を映す鏡は障害だけではない。自分にとって心地よい場所を選べる時代にあって,孤立が深まる「私たち」の社会をこれからどうしていきたいのか。その問題を,私の視点から,そして拒否しがちな私と異なる他者の視点に目を向けることを,「難しい。できないかもしれない。それでも考えよう」とすることが,これからの社会の希望だと考える。本連載を通して,社会と自分との関係や社会における自身の責任について考えた。本連載が,少しでも読者の方の生活にある「何か」に引っかかれば,幸いである。
→この連載をPDFで読みたいかたはこちら
文献・注
(1) 異なる視点への気づきをもたらす取り組みにはさまざまなものがある。一般的なのは,障害の機能や症状を講義や疑似体験を通して知るような形式である。趣向の異なるものとして,障害平等研修(DET; Disability Equality Training)がある。DETは障害と社会の関係に着目した発見型の研修である。
障害平等研修フォーラム「障害平等研修とは」
(2) 大嶋絹子・横山美江 (2014).「医療的ケアを必要とする児と共に学ぶ児童における支援的行動への影響」『小児保健研究』73(1), 59-64.
(3) (2)の大嶋・横山(2014)より作成。
(4) (2)の大嶋・横山(2014)より作成。
(5) この調査対象の一部別学群の学級がどのように一緒に学ぶ活動とそうでない活動を分けていたのかはわからないが,普通学級での学習が医療的ケア児にとって必要か,理解できるか,それよりも個人の必要としている学習を行うべきか等,基準を設けて検討されることがある。
(6) 一木玲子 (2015).「合理的配慮の提供を阻害するもの」『教育と文化』81, 32-41より作成。
(7) この背景には,障害者には意思決定能力がないというステレオタイプや権力も影響している。また,このスローガンは意思決定に関わる他の場面でも同様にいえることだ。例えば,組織において,経営陣が「私たち」の会社の決定を下す。この「私たち」の中心は経営陣となりやすく,現場の人間との重みは同じではない。組織のメンバーにはそれぞれ役割があるが,それぞれの立場が抱く「私たち」のギャップが大きいと,反発や分裂が生まれるだろう。