あなたは障害者をどう思いますか?――身近な問題としての偏見や差別(4)

この結果は,何を意味しているのだろうか? さまざまな解釈がかきたてられる。

まず,子どもたちの答えに差が出た「社会的責任目標」は,医療的ケア児についての質問ではない。「医療的ケア児にどうするか」ではなく,「困っている人がいたらどうするか」「集団の一員としてどう行動すべきか」ということを尋ねているのである。

そして面白いことに,この差とは,「共学群」>「一部別学群」≒「別学群」であった。つまり,共学群だけが高く,一部別学群と別学群は統計的に同じであったのだ。可能性としては,一時的であっても医療的ケア児と関わっている一部別学群は,別学群よりも社会的責任目標が高くなることも考えられる。例えば,障害についての知識や障害者との接触体験が影響すると考えれば,「共学群」≒「一部別学群」>「別学群」(あるいは「共学群」>「一部別学群」>「別学群」)もありうるだろう。しかし,一部別学群と別学群には差がなかった。なぜだろうか?

1つの説明は,一部別学群がどのようにすごしているかを考えると,想像が働く。一部の授業は医療的ケアの子どもも含め,全員が同じ授業を受ける。そしてまた一部の授業では,医療的ケアの子だけが他の子どもとは別の場所で別の先生から別の授業を受ける(5)。一部別学群の子どもたちにはその情景がどのように映るだろうか? 次のように感じる子もいるかもしれない。「学級のある子には,私たちと一緒に『できること』と『できない』ことがある」「あの子は特別」「『できない』ことは,専用の場で専門の先生が担当する」「そういうものだ」。このような認識は,ひいては,いろいろな人がいる集団の中で,できなかったり困ったりしている人に対して「自分がどうするのか」よりも,「別の誰か」が対応するという意識へとつながるのかもしれない。

一方,愛他性を問う質問では,グループで差が見られなかった。愛他性とは,みずからの利益よりも他者の利益や幸福を優先する純粋な利他意識である。医療的ケア児がいるかどうかによって,愛他性の得点に差はなかった。ただし,共学群の子どもたちの中では,社会的責任目標の高い子どもほど愛他性も高いという関係が見られた。

これらを勘案すると,共学群の子どもたちは,インクルーシブな環境で集団の一員としての役割を意識し,その意識の高さが,間接的に他者のために行動する愛他性にもつながっていると考えられる。共学群とは,出て行くという選択肢のない集団である。つまり,何かが起きても,その集団の中で何とかしなければならない。この条件下においては,集団における自己の役割が意識されやすくなるだろう。その中に,より人手を必要とする医療的ケアの子どもがいるだけで,とりたてて医療的ケアの子どもにだけ支援をするのではなく,支援が日常的に浸透した集団の中で,何か起きたときに自身がどう行動するのか,という責任の意識が生まれる。

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おそらくこの結果は,障害児・者がいることで思いやりや奉仕精神が育ったというよりは,一部であろうと,特定の誰かがいない社会というのは,このように自分の問題を他人の問題と考える可能性があるということなのかもしれない。

これらはあくまで筆者の想像であるし,調査対象や方法の制約もあり,この調査1つで決定的なことはいえない。しかし,障害のある人が同じ世界にいることと,別の世界を用意して別々にすごすことでは,障害のない人たちの意識が変わってくる可能性を指摘する,非常に示唆に富む調査である。

「私たち」という意識

「私たち」人々の社会的関係の様相をわかりやすく図式化したものが図3である。「私たち」の社会からある人々が完全に除外されている状態が「排除」にあたり(例:無視),「私たち」の社会と「彼ら」の社会が別々に構成されているのが「隔離」の状態である(例:らい予防法下の療養所,刑務所)。「私たち」の社会の中に,ある人たちが区別され異なる条件で共存する状態が「統合」である(例:施設)。そして,どのような人であっても,それぞれに必要な条件が社会的に整備されて平等に共存する状態が「包摂,包容」である。

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図3 社会の様相(6)

「私たち」と述べるとき,いったいどのような人たちを想定しているだろうか。そして,いま私たちがいる社会のあり方は,いずれに当てはまるだろうか。

人は,基本的に自分の視点から物事を考え,自分に関連する事柄に関心をもつ。例えば記憶についても,自己と関連性が見出される,あるいは見出した知識は,より覚えていられる(自己関連性効果)。

また,人は人と関わりながら,さまざまな集団で生活している。それぞれの集団では,「私」を中心に,同じ集団に属する人たちで構成される「私たち(内集団)」という意識が生まれる。

家族や友人,学級,会社など,人は,自分と何らかの結びつきをもった人たちを大切にしようとするし,「私たち」をより肯定的に,望ましく考える傾向をもつ(それは,その集団に「私」が含まれているからだ)。

私たちが一緒にすごせる人の範囲には限りがあり,常日頃から,あらゆる人を意識し,責任をもつということはできない。したがって,私たちは,「私たち」に含まれない人たちのことを考えることを苦手とする。


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