現象としての社交不安(2)
これって正常?異常?――現象の機能を考える
Posted by Chitose Press | On 2015年12月07日 | In サイナビ!, 連載現象の短期的機能と社会的機能
現象を治すべき治療対象と考える場合、まず押さえておくべきことは、その現象が短期的に・即時的に何をもたらしているのかです。そして、それが自分の社会生活(学校生活を含む)でどの程度邪魔になっているのか、という視点が重要であり、社会的機能と呼ばれています。例えば、その現象のせいで学校に行きづらくなっていたり、職場で自分の力が発揮しにくくなっていたりするとしたら、現象によって社会的機能が低くなっていると言えます。他の人にもわかるような目に見えた変化はないが、けっこうきつい思いをしながら何とか社会生活を送っている、という場合も負担がかかっていて社会的機能が低くなりかねないので、何らかの援助を試してみる価値はあります。
それに対し、目に見えた変化も、苦痛もないけれど、何だかこの現象に違和感を覚えている……というような場合はどうでしょうか。この場合、この現象以外に特に目立った不適応が見当たらないと、特に医療においては、治療は不要であると見なされることが多いでしょう。つまり、「現象があれば病気である」というわけではなく、「現象があり、しかもそれに苦痛や社会的機能の低下があることによって、はじめて病気であると言える」というわけです。ただし、生活に支障がないものの何となく違和感を抱いていることを1つの生きづらさと考えるのであれば、カウンセラー等に話してみる価値はあるでしょう。
このように、社会的機能の低下がどの程度大きいと治療者が判断するのか、そして社会的機能の低下や現象がもたらすものを本人がどの程度治したいものだと判断するのかによって、治療対象になるかどうかが決まってきます。つまり、治療対象になるかどうかは、現象単独ではなく、その機能とそれに対する意味づけによる、と言い換えることもできるでしょう。これによって社交不安の正常と異常の境界線を引くという考え方が、まず1つ目の視点です。
現象の長期的機能
認知行動療法(3)では、認知が感情を生じさせている、つまり頭に浮かぶ考えが気持ちを生じさせていると考えます。これに即して言うと、「人前で変なことをしてしまってバカにされるのではないか」という考えによって即時的に何らかの感情が生じていると言えます。具体的にはこうした認知によって、不快な気持ちになったり焦りの気持ちを生じたりします。
しかし、今挙げた例は瞬時に起こることに焦点を当てているだけで、その後の影響まではとらえていません。心理的苦痛は瞬時の体験に対して強烈に焦点を当てる機能をもっていますが、「現象」とそれがもたらすものをより広く見ていく際には、その長期的機能にも目を配る必要があります。例えば、「人前で変なことをしてしまってバカにされるのではないか」という思いがよぎったので、それならバカにされないように行動を注意しよう、と前向きに自分の居住まいを正すこともあります。この場合、不快をもたらしているはずの認知が、自分をよりよいものにするためのきっかけや動機づけとしての機能を果たしていることになります。もちろん、不安に駆られて強迫的に行動を修正しているとしたらある程度の苦痛が伴ったり(短期的機能)、長期的にしんどい面も出てきたりするかもしれませんが、この例の場合は、どちらかいうと認知が適応的な方向に利用されていると言えます。現象が自分に何かを教えてくれた、というわけです。
また、「この症状があり続けることで苦痛以外に何がもたらされているのか」を、自分だけでなく他者との関係も視野に入れつつ考えてみたいところです。自分がそういう人を見たときにどのようにしてあげたくなるのか、というところもヒントになるかもしれません。本人にとっての「現象」と他人から見えるあなたの「現象」は、えてして違うものです。知らず知らずのうちに何かをもたらしている現象の機能を想像してみましょう。
現象の長期的機能という面でもう1つ押さえておきたいのは、「なぜ自分にこの現象が生じるのか自問自答する」という機能です。例えば、病気をもって生まれたり事故にあったりした子どもの親は、なぜ、なぜ、とその出来事が自分に生じた理由を問い続けることが知られています。私から見ると、これはごく自然な心の働きであり、また自浄力を秘めた問いであるように見えます。強い苦しみを伴うものではありつつも、その方の「なぜ」にあった答えが見つかるならば、そのしっくりいく感覚がその人に力を与えてくれるはずです。人前でのちょっとした社交不安的現象をきっかけに、「なぜ自分は昔からこうなんだろう」とか「なぜ自分は人と違っているんだろう」と、自分に自分の生を問う構えをもたせる、というのも長期的機能の1つです。ただし、問うことが生きやすさにつながるか生きづらさにつながるかは、人それぞれのように見えます。
重要なのは、長期的機能を考えていく際に、生活の質も人生の意味もその人にとって両方とも大切なものだということです。ただし、それぞれをどの程度の割合にしてバランスをとるのかは各自に任されています。特殊な例かもしれませんが、心理療法の上でどちらかを欠いた場合、「元気にはなったが、これからどう生きていけばいいのかわからない」とか「自分の生の意味はよくわかったが、もう少し元気になれた方が嬉しい」という不満につながっていきます。「機能と意味の両立」は、心理療法においても重要なテーマだと私は考えています。
「症状=治さなければならないもの」という考えに立てば、すべての症状を治さなければいけないということになるでしょう。しかし、これはあまり現実的な目標設定ではありません。第1回でもお話しした通り、適応するための力の反映が現象として現れている場合がけっこう多いためです。それに近いですが、よりよく生きようとすることの裏側にそうできなかったことへの恐怖が生じるというのは、日本で開発された代表的な精神療法である森田療法(4)も教えてくれる考え方でもあります。