書評『こころのやまいのとらえかた』
Posted by Chitose Press | On 2024年04月10日 | In サイナビ!「こころのやまい」を1つの現象としてとらえ,多層的に眺めていく『こころのやまいのとらえかた』(佐々木淳著)。「多層的に見る」ことは,臨床実践の腕を上げるためにどのような意味をもつでしょうか。伊藤絵美・洗足ストレスコーピング・サポートオフィス所長による書評です。(編集部)
伊藤絵美(いとう・えみ):洗足ストレスコーピング・サポートオフィス所長。webサイト
届けられた本書(1)を手に取る。とても優しい色の表紙に「こころのやまいのとらえかた」というタイトルが,シンプルなフォントのひらがなで書かれている。「こころのやまい」という言葉。とてもやわらかい感じがする。「心の病」と漢字で書くと,かたくて,突き付けられるような印象を受けるが,それがひらがなになると,とたんにやわらかく,ふんわり受け止められるような気がするから不思議だ。こころのやまいのみならず,本書がそのような受け止め方をされることを望んでいるような,そんな印象を受けた。
しかし読み進めてみると,のん気に「ふんわり」と読んでいる場合ではないことがすぐにわかる。まえがきにあるように,きわめて複雑な構成概念であるこころのやまいは,眺める視座によって異なる側面が見えてくることから,それに見合った多層的なとらえかたが必要だとして,本書は,バイオ,サイコ,ソーシャルという基本3点セット(この3点の視座だけでも,多層的なとらえかたを試みていると言えるのだが)のみならず,そこからさらに視点を広げ,社会システム,文化と進化,時間といった視座からこころのやまいをとらえよう,という壮大で野心的なテキストなのである。そのことに気づいた私は,本書を本格的に学びながら読もうと姿勢を正し,ワードファイルにメモを取りながら読み進めることにした。結果的に数日間かけて読み終えたときには,びっしりメモされた13ページものワード文書が手元に残った。そのメモを読み返しながら,この書評を書こうと思う。
結論から言うと,これは「こころのやまいのとらえかた」の解像度がきわめて高くなる本である。私は著者の佐々木淳さんとはかれこれ20年以上のおつき合いがあり,彼を「認知行動療法の仲間」だと認識していたが,こころのやまいや心理療法にまつわる多層的な理解のためにきわめて多くの知識をものにしているものすごい教養人であることに気づかされ,圧倒された。普通,一人でこのような本を書くのは不可能である。バイオの専門家,サイコの専門家,ソーシャルの専門家,社会システムの専門家,文化の専門家,進化の専門家に原稿を依頼して,一冊にまとめるぐらいしか想像がつかない。それを一人でやってのけた,ということにまず敬意を表したい。この20年を通して,彼は臨床と研究と教育活動を続けながら,これほどまでの教養を身につけたのだ。と思ったら,あとがきで,教養を通じて人間の多様性を知ることは臨床に不可欠であると佐々木さん自身が書かれていた。そう,本書はこころのやまいのとらえかたについての教養本なのである。教養は具体的な実践を裏打ちする。私のような現場の臨床家は,みずからの臨床実践の腕を上げるために,スキルを身につけるだけでなく,教養も同時に身につけるべきである。そんなことを,本書全体を通して痛感させられた。
以下では,本書の具体的な内容に触れていこう。まずこころのやまいの歴史(第1章),バイオサイコソーシャルモデル(第2章)でベースを押さえつつ,第3章はバイオ。伝統的なバイオの視座(生物学的なメカニズムの客観的な解明を目指す)が紹介されるとともに,感情的苦痛の主観的で,生きた経験に基づく「当事者主導研究」が紹介されている。後者はやまいを抱く患者の実感に沿った研究を目指すもので,伝統的なEBM(エビデンスに基づく医療)と両立できると著者は述べている。つまりバイオの世界一つをとっても,その視座は一つではないことが示されており,どの領域でもつねに研究や実践が更新されること,それを我々は学び続けなければならないことを教わった。第3章を読むだけでも,バイオという視座の我々の解像度が上がる。
次にサイコとソーシャル。ここでは身体面,心理面,社会面を含む包括的な評価として「主観的ウェルビーイング」が紹介されている。そしてウェルビーイングを臨床に取り入れることによって,症状を改善させる目的の薬物療法や認知行動療法の効果が底上げされることが示された。ここから,ネガティブな面を減らすことと,ポジティブな面を増やすことは別の方向性をもっていることが示唆されており,大変興味深い。さらに著者は,「実存」という視点からもこころのやまいをとらえられることを示しており,やはりこの章(第4章)を読むだけで,サイコとソーシャルという視座の解像度が上がるのである。ありがたいことである。
そして私が本書を読むうえで最も楽しみにしていた,第5章「社会システムの中で見えてくるやまい」,第6章「文化,進化から見えてくるやまい」に進む。この2章について私は膨大なメモを取ることになった。そのすべてをここで紹介することはできないが,とくに,「病気喧伝」に多くのページが割かれており,たとえば拒食症の事例がまったくなかった香港にDSM流の診断基準がメディアで報じられた結果,拒食症患者が急増したという事実が提示されており,こころのやまいを社会システムという視座でとらえることが不可欠であることが示されている。
ここで私は愛読書である『ピダハン』(2)という書籍を想起した。アマゾン奥地の少数民族であるピダハンの人たちは,布教のためにそこを訪れた著者エヴェレットが,継母の自殺について悲痛な様子で告白したところ,「愚かだな。ピダハンは自分で自分を殺したりしない」とゲラゲラ笑ったという逸話は,私にとって非常に衝撃的であった。「自殺」という,先進国であれば間違いなく「予防しなければならないネガティブな事象」としてとらえられるはずの現象を,ピダハンの人たちは笑い飛ばしたのである。生死に関わる重大な現象ですら,このように社会システムが異なればおおいに扱いが変わるのであれば,こころのやまいをとらえるにあたっても,社会システムという視座は不可欠であるし,臨床家としてそういう視点をもっていることはじつに重要だと思う。
他にも,社会システムに関する章では,近代医学の限界とリスクを認識しておく必要性,患者と意思決定を共有する重要性,いまある診断や治療法は「仮説」にすぎないということ,その証左として服薬と休養を第一選択としてきたうつ病の治療が再考され始めていることが述べられており大変興味深かった。私は心理職なので医療については医師の指示を受けることが法律で定められているが,医師の指示に盲従するのではなく,それすらも「仮説」としてとらえ,当事者と共有していくことが誠実なのだとあらためて考えた。ちなみに今後DSMにおいて検討されうる診断として,「減弱精神症症候群」「非自殺性自傷症」に並んで「カフェイン使用症」が挙げられており,いまもコーヒーを片手にこの原稿を書いている私は,それを知ってドキッとした。自分にとって不可欠な毎日の嗜好品だが,その使い方によっては「精神障害」としてDSMに記載される可能性があるとは! これがまさに病気喧伝であり,やまいが社会システムによる「流動的なもの」であることを,突き付けられた気がした。
第6章「文化,進化から見えてくるやまい」では,「文化結合症候群/文化依存症候群」について解説され,「精神医学や臨床心理学は西洋の白人中流階級の文化を起源として,理論や実践が積み重ねられてきたことを忘れてはいけない」と述べられている。たしかに,私が志向する認知行動療法やスキーマ療法の国際学会に出席すると,欧米の白人の講師やシンポジストが圧倒的に多い。参加者も然りである。アジア人はわずかで,アフリカ出身の人や,アフリカ系アメリカ人には滅多にお目にかからない。こころのやまいを考えるうえで,学問的にはそもそもこのような文化的偏りが背景にあることを私たちは覚えておかなくてはならない。一方で日本だけでしか見られない,つまり「文化結合症候群/文化依存症候群」と思われていた「対人恐怖症」が,アメリカの一般サンプルでも見出されたことが報告されている。進化という面では人間の共通性が,文化という面では人間の非共通性が強調されることになる。そのような多様な有り様を簡単に一つの結論に集約させるのではなく,多様なままとらえ,対応していくことが,これからの臨床実践の場ではさらに求められることになるのだろう。第6章の最後では,「ニューロダイバーシティ」について解説され,少数者を排除するのでもなく,直そうとするのでもなく,包摂すること(インクルージョン)が望ましいあり方であることが論じられている。昨今の病気喧伝の最たるものが自閉スペクトラム症をはじめとする発達障害で,我々心理職が臨床現場で出会うことが多い人たちであるが,そういう我々こそが「ニューロダイバーシティ」「インクルージョン」についてきちんと理解し,それらの知識に基づいて実践を行うことが求められていると言えよう。
最後の第7章「時間から見えてくるやまい」では,発達精神病理学によって見出された「小児期逆境体験」について述べられており,これが子どものみならず大人の心身の健康や社会生活に大きく影響することが実証的に明らかになり,そうなるとただ目の前の患者の「今」を見るだけでなく,その患者の発達的な経緯を臨床に取り込む必要性が出てくる。これは私が「今・ここ」を重視する傾向のある認知行動療法に限界を感じて,患者の小児期体験を重視するスキーマ療法を学ぶことになった経緯とパラレルで,おおいに納得できることである。そして,その経緯の延長線上に必然的に形成された「トラウマインフォームドケア」という概念が紹介され,「トラウマのメガネ」をかけることによるポジティブな影響が解説されている。さらにトラウマから回復することによって得られる「心的外傷後成長」と,そして社会構成主義に基づく「ナラティヴベイストメディシン」についての解説が続き,最後は「一つの事象を,多様な角度から考え,しかも,(略)排他的にならずに共存し得る余裕というかな,柔らかさが育ってくることが,実は,我々が願っている治療像なのよ」という神田橋條治先生の言葉で本書は締め括られる。神田橋先生のこの言葉は,本書の本質をそのまま言い当てており,さらにこころのやまいに対する臨床とはこうあるべきだ,ということをズバリと言い当ててもいる。なんと見事な締め括り方であろうか!
そういうわけで最初から最後まで,佐々木淳さんの教養と才気に唸らされた本書なのであった。本書の続編が出るとしたら(出してください!),心理カウンセリングの第五波と言われる「社会正義アプローチ」について,ぜひ佐々木さんの解説が読みたいものであると思う。そのときまで,私たちは本書を何度も繰り返し読んで,教養の底上げをしておきましょう。
文献・注
(1) 佐々木淳 (2024).『こころのやまいのとらえかた』ちとせプレス
(2) エヴェレット,D. L.,屋代通子訳 (2012).『ピダハン―「言語本能」を超える文化と世界観』みすず書房
やわらかく多層的な理解に向けて。「治すべきもの」「症状」ととらえられがちな「こころのやまい」。1つの現象としてとらえてみると,その振る舞いや取り巻く動きに視野が広がってゆく。こころのやまいに関心を寄せる心理職,大学院生・学部生,一般の方に。