一匹竜の運研究

『幸運と不運の心理学』サイドストーリー

運を心理学的に分析する『幸運と不運の心理学』の刊行を,感慨深く思う研究者がいました。本書の背景にある運研究は,どのような人物によりどのように積み重ねられてきたのか。著者・村上幸史准教授を学部生の頃から知る三浦麻子・大阪大学教授が語るサイドストーリー。(編集部)

Author_MiuraAsako三浦麻子(みうら・あさこ):大阪大学大学院人間科学研究科教授。→webサイト →Twitter(@asarin)

村上君を「うんうんさん」と呼び始めたのはいつの頃からだったろうか。本書にあるとおり彼が運の研究者であること,そして彼のウェブサイトが unryu2000.com であることからもわかるように,ご本人が「運竜」と自称していることに由来するものだが(なおこの自称について,土俵入りの型で有名な横綱「雲龍」になぞらえたもので,運研究界の横綱を目指すという心意気を表したものだと説明を受けた記憶があるのだが,本書第3章で『哭きの竜』という雀士を主人公とする劇画が「運を描いたフィクション」として紹介されているので,ひょっとするとそれをもじったものでもあったのかもしれない),長年にわたってそう呼んでいる。うんうんさんが(…とずっと書くのは面倒だし実は面と向かってそう呼んだことはないので以降は村上君とする)「運」の心理学を研究すると言い始めた当初からの(研究者としての)生態を知る者の1人として,このたびの本書の刊行は,嬉しい,とか,喜ばしい,とかいうより,感慨深い。あまりの感慨深さに「本書に関するサイドストーリーを書きたい」と戯れ言をツイートしたところ,「ちとせプレス」の櫻井さんから「ではよろしく」と依頼があり,本稿が実現することとなった次第である。

村上君と私は,大阪大学人間科学部・同大学院人間科学研究科で同じ社会心理学研究室に所属していた同窓で,彼は学部入学19期,私は17期なので2学年後輩にあたる。彼が3年生になり研究室に来た1992年は,私はM1だったが,その当時から彼は運を研究したいと言っていた。というよりもうそう決めていたようだった。たいていの社会心理学の教科書には,原因帰属の1次元として運を位置づけるWeinerの理論が紹介されているが(本書第2章参照),ただそれだけを扱う研究など聞いたことがない。しかも人がそれを資源と考え,みずからの行動や経験により増減するものだと考えているところに注目したいという。直感としてはわからなくもないがどこにどうやってアプローチするのか。たいていの学部生なら指導教員や先輩に論破されたと考えてすごすごとテーマを変えるものだが,彼は私をはじめとする周囲が「なにそれ」「意味わからん」と口々に言うのもどこ吹く風で,ともかく最初から独自の「運資源理論」(本書で言うところの「運資源ビリーフ」)にこだわっていた。以来一筋,本稿執筆にあたって彼のサイトで調べたところ,村上君が責任著者となっている論文・学会発表等のうち,タイトルに「運」あるいは“luck”が含まれているものは,卒論「運に関する認知と行動」(1995)を皮切りに,最新の学会発表「新型コロナウイルスへの感染は不運か?」(日本社会心理学会第61回大会,2020)に至るまでの,日本語による94件のうち40件,英語による17件中12件にのぼり,しかもそのすべてが単著であった。彼がまさに竜が如く「運」研究に邁進してきたことと,それを他者とは共同していないことがわかる。この四半世紀にわたる彼の研究人生のエッセンス,いや,ほとんどすべてが詰まっているのが本書である。

院生室で開催した手巻き寿司パーティにて(1995)(小林知博氏〔神戸女学院大学人間科学部〕提供)

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私は,1992年4月から一旦阪大人科を離れた2004年3月まで,丸12年にわたって彼の「運」研究史の前半に身近な人物の1人としてつき合ったことになる。そもそも大学院というのは,なにがしか世間的な平均から逸脱したところをもつ人々が多く巣くうところだが,村上君はそんな中ですらのっけから異彩を放つ傑物だった。一言で表現すると「クセがすごい」のである(ご存じの方は「千鳥」のノブの口調で脳内再生してください)。私に限らず,彼と阪大社心で同じ時をすごしたことがある人は,誰でもがそのクセのすごさを痛感させられたエピソードをもっているはずだ。たとえば,研究に関する議論が膠着状態になり,突然殴りかかられた(親父にもぶたれたことないのに!)とか,なぜ国際会議などに行くのかと出国当日の未明まで激詰めされた(被害者K君はいまも語り草にしている)とか。暑がりの彼が院生室のエアコンの設定温度を下げすぎるのにたまりかねた同室者たちが,エアコンの吹出口から彼のデスクに向かって天井を縦断する段ボールのお手製パイプを作り上げた(効果はきわめてわずかだったが力作だった)とか,某有力私立大学の教員公募の添付資料として修士論文(未公刊)を送ろうと思うがどうだろうかと問われて悪いこと言わないからやめとけと言ったら30分ほど食い下がられた(幸いこのときは殴りかかられなかった)とか。いやそれどころじゃない,ほらあんなことやこんなことも…と当時の仲間で集うたびに話題になり続けるエピソードをこれだけもっている人はいない。本書をお読みになれば,クセがすごい人による研究のクセのすごさをきっと理解していただけるはずだ。しかも前半を経験せずに後半だけを知ることができるんだから「おいしいとこどり」である。

そこまでクセがすごかったはずの村上君が,最近はずいぶん「普通の人」に近づいたんじゃないか,という話が仲間内で出るようになったのはここ数年のことだ。つい先日,恩師である外山みどり先生にお祝いを贈ろうという企画に誘ったときも,すんなり応じてくれ(これは想定内),ごく普通の心温まるメッセージ動画を提供してくれたうえに(これもまあ想定内),かかった経費の支払いをお願いしたら秒で払ってくれたのである(これが想定外!!)。院生室にいた頃の村上君ならいま手持ちがないとかなぜ割り勘にする必要があるのかとかややこしい言いがかりをつけてきたに決まっているのにあっさり対応されてしまい,きっと昔のように何か一悶着起こしてくれるはずと楽しみにしていた一同は拍子抜けだった。村上君ほど「人間は生涯発達する生き物である」を実感させてくれた人はいない。本書もその発達過程の成果の1つである。

このように村上君の人となりをある程度知っているつもりの私にとって,本書について残念なことが1つある。それは,おそらくあえてそうされているのだろうと思うが,村上君ご本人が「運」をどう捉えているのかは見えてこないことである。実は,村上君と私には共通の趣味がある。それは競馬である。競馬場に行かない限り馬券は買わない私と違って彼はかなりの馬券師で,いまはどうか知らないが院生当時は週末となれば必ずWINS(場外馬券売場)に出かけていた。賭け金をはっきり聞いたことはないが,おそらくなかなかの額だったのではないかと推測する。競馬やそれに付随するギャンブルはまさしく運のかたまりのようなもので,本書でも第4章に数々の研究を引きながら「運の強さ」の認識とギャンブル行動の関わりが解説されている箇所はあるが,そう言うご本人はどうなのか。はたして彼にとって競馬はただの趣味なのか。それともEbbinghaus(1885)ばりに人が運をどう捉えるかを探究するための自分を被験者とする実験なのか,あるいはみずからの研究成果を現実場面に適用するための実践なのか。今後はぜひそれも掘り下げていただきたく思う。

私が本稿を書くと知った村上君は「読めば,本をレジに持って走ったり,ポチッと注文せずにはいられないような涙,涙の美談をお願いします(笑)。」と言って寄越したのだが,美談らしい美談は書けなかった。なぜなら私の知る限り,彼にまつわる唯一の美談は「一匹竜の運研究が,こんな素晴らしい書籍になった」ことだからだ。研究者としてなんと幸運なことか。これでベストセラーにでもなったら人生の残りの運を使い果たしてしまいますから,どうか25年後の次回作(きっとタイトルは『運学』)まで,じっくり溜め込んでおいてください。

運とはいったい何なのか。運の強さやツキはどのように語られ,認識されているのか。運を「譲渡する」現象はどのように捉えられているのか。日常生活の中から,さまざまな記事やノンフィクションにおける運の描かれ方を分析し,その実態に迫る。


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