意味を創る――生きものらしさの認知心理学(1)

顔はどこにあるのか?パレイドリア現象と顔認知

パレイドリア現象では,顔,動物,空想上の生物,物体,幾何学模様など,じつにさまざまなものが見えますが,よくよく観察してみると「生きもの(動物)」が見えることが圧倒的に多いことがわかります。著者らの実験の中でも,無意味な模様に何が見えるか答えてもらったところ,じつに8割以上の回答が顔や生きものでした。

パレイドリア現象の中で創られる意味が「生きもの」に極端にバイアスされていることは非常に興味深い問題です。この点は本連載のメインテーマとも関わっているので,次回以降でも再考してみましょう。

さて,さまざまな意味のあるモノが見えるパレイドリア現象ですが,実験心理学的な研究としては,顔のような物体(face-like object)や図2のようなノイズの中に顔が見えるという「顔パレイドリア」を使った研究が主流です。顔認知の研究の蓄積が多く,パレイドリア現象とリアルな顔認知の比較が容易なためでしょう。

ではパレイドリア現象の中で創られた意味は,ヒトの行動や知覚にどの程度のインパクトを与えるのでしょう。ただ「見えた,楽しい!」だけなのでしょうか?それとも,リアルな顔と同じように反応してしまうのでしょうか? 著者らの研究を少しばかり紹介したいと思います。

顔はヒトの脳にとって特殊な視覚情報です。中でも視線の認知はコミュニケーションで重要な役割を果たします。意図せず「視線につられる」という経験をもつ読者も多いと思いますが,これは視線手がかり効果(Gaze Cueing Effect)や共同注意(Joint Attention)と呼ばれていて,注意が他者の見ている場所に自動的に移動することが知られています(8)。では,はたして顔パレイドリアでも視線につられるのでしょうか?

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図3 視線手がかり実験で用いられた刺激

いまは顔をテーマに解説しているので,上のような画像を見れば,多くの読者が顔を認識すると思います。コンセントやタンスがどちらを向いているかわかりますよね? 著者らはこのような顔パレイドリア刺激を使って,注意が自動的に移動するか実験しました(9)。その結果,顔パレイドリア刺激の視線の先に出てきた物体を素早く見つけられることがわかりました。

ただし,これには条件があります。まったく同じ顔パレイドリア刺激を出していても,それを顔だと認識していなければ注意の移動は起こりませんでした。逆に,一度それを顔だと認識してしまうと,どれだけ意図的に視線を無視しようとしても,注意は自動的に移動することがわかりました。

このように共同注意において,入力が本当の顔であるかどうかはたいして問題ではなく,むしろそれを顔だと認識しているかどうか(つまり脳の中で顔という意味が創られているかどうか)の方が重要だということがわかります。

顔パレイドリアの研究もう1つ紹介しましょう。ヒトは顔を見つけるのが得意です。たくさんの物体の中に1つだけ顔があったときには,素早く見つけることができます。では,顔パレイドリアもやはり見つけやすいのでしょうか?

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図4 視覚検出実験で用いられた刺激

著者らは上図のような画像を非常に短い時間表示して,顔があったか,または三角形があったかを答えてもらう視覚検出実験を行いました(10)。ポイントは,真ん中の画像(∵)です。この画像は,ある人たちにとっては三角形として,別の人たちにとっては顔として認識されていました。結果,まったく同じものを見ているにもかかわらず,∵を三角形として認識している人よりも顔として認識している人の方が,視覚検出課題の成績がよいことがわかりました。やはり重要なのは物理的現実ではなく,それをどのように認識しているかということのようです。

このような実験からわかることは,「顔が見えた!」という顔パレイドリア現象が起こったときには,単に「はいはい,見える見える」で終わるのではなく,まさに顔を見たときと似たような認知処理が行われるということです。脳の中で創られる意味が,認知や知覚に多大な影響を与えるといえるでしょう。

ところで顔パレイドリアについては,もう1つ著者が不思議に思っていて,悶々と悩んでいることがあります。心理学や神経科学の研究から,人間は顔に対して非常に高い視覚処理能力をもっていることがわかっています。例えばわずかな人相や表情の違いを容易に見分けることができます。

一方,顔パレイドリア現象では点が3つ並んでいて,上が密(∵)なら顔に見えてしまううえに,共同注意や視覚検出の促進まで自動的に起こってしまいます。ところが実際のところ,顔パレイドリア現象でわれわれが見る「顔」の姿形はリアルな顔とは似ても似つかないものです。その証拠に,パレイドリア現象で見る顔が本当の顔ではないことは間違いなく自覚できます。

本来なら,顔ではないとわかりきっているものを顔として処理することに何らメリットはないように思えます。例えばコンセントが顔に見えたとしても,その視線の先に何か重要な情報があるはずもありません。リアルな顔に限って顔処理を走らせるべきでしょう。

顔に対する高い視覚処理能力をもっているにもかかわらず,少しでも似ていれば何でも顔に見えてしまうという大雑把さ。これら一見相反することがなぜ両立しているのか,現在のところよくわかっていません(気にしている人もあまりいないかもしれませんが……)。ですが「意味を創る」ということを解く鍵がこのような問題の中にあるのかもしれない,などと妄想しています。


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