人間の命と死,そして心――『人口の心理学へ』が問いかけるもの(2)
Posted by Chitose Press | On 2016年08月25日 | In サイナビ!, 連載私たちの普通の生活は革袋かガラスの入れ物か,秩序のある世界の中にあって,お金を出せばサービスが得られるし,バスや電車は時間通りに動きます。研究プロジェクトだって1年経てばこう,2年目はこうなってと計画通りに進むことが普通で,そのために,コントロールのきかないという感覚が感じられない気がします。
人口の心理学は,コントロールや計画や予測がきかないものに,間近に接する心理学なのかなと思います。これで測定したらこうなったというものではなく,ローラーコースターに乗って丸ごと体験してみないとわからない世界をあらためて思い起こさせてくれる本であるように思いました。
高橋:
ありがとうございます。
柏木:
いまのお話に関連してちょっといいですか。ある心理学者から本の感想をいただきその中で,ご自分は5回流産したうえでできた子どもだと書いておいででした。こういう時代になっても,子どもがほしいと思うと,流産をしてもなおほしくなる,もしもうまくいかなければ小泉智恵さんと平山史朗さんがこの本で書かれているような,生殖補助医療を受けるのでしょう(2)。一度始めると,ひけなくなる悪循環。以前はそういうことはありえなかった。もっとも,昔はもっとひどくて,「子なきは去る」と,原因は女性だからということで離婚させられました。生殖補助医療で医学が進んだことの唯一の功績は,不妊になるのは男性と女性の半分半分が理由だということがわかったということだと思うのですが,いずれにしても「つくる」時代になっても,流産すると何が何でも子どもがほしくなり生殖補助医療に走るという気持ちを研究の対象にすべきだと痛感しています。そこではじめてコントロールできないという体験があるわけですね。
柏木惠子(かしわぎ・けいこ):東京女子大学名誉教授。主著に『子どもという価値――少子化時代の女性の心理』(中央公論新社,2001年),『家族心理学――社会変動・発達・ジェンダーの視点』(東京大学出版会,2003年),『日本の男性の心理学――もう1つのジェンダー問題』(有斐閣,2008年,共編),『家族を生きる――違いを乗り越えるコミュニケーション』(東京大学出版会,2012年,共編),『おとなが育つ条件――発達心理学から考える』(岩波書店,2013年)など。
仲:
そうなんです。だいたいは子どものときから,1年生,2年生,3年生になって,中学受験があってとか,コントロールの中で生きてきているのですね。
柏木:
そうですね。昔の人は結婚をすれば子どもを産むのが普通,あるいは社会への責任だと,政治家が喜びそうなことを言うのですが,いまの人はそういうことは考えないで,仕事がひと段落したからとか,子どもを育ててみたかったとか自分の選択の結果だというのが大勢を占めていると思います。そうした条件の中で,1人子どもがいるカップルのある男性で,「お産がとても苦しくて,子どもの命よりも妻の命の方が大事だと思って,1人でやめたんです」と公言する人がいました。「妻が大事にしているものを大事にしたいので子どもはいらない」という男性もいます。女性だけではなく,そうした男性も出てきています。これからの研究の課題だと思います。
奈良女子大の臨床心理学者の伊藤美奈子さんはインターネットで流産を経験した人を募集して,聴取する研究をなさっているそうです。最近の『心理臨床学研究』の書かれた論文を送っていただきました。流産を経験したことで何が一番,悲哀や悲嘆に関係しているかというと,夫との関係だということです。普通のところでは出てこないことだなあと,感心して拝見しました。
トリの目とアリの目,対立としての親子関係
高橋:
それでは,根ヶ山先生お願いいたします。
根ヶ山光一(以下,根ヶ山):
みなさんのお話を伺っていて,女性の観点がけっこう揺るぎないベースにあるのかなと思いました。私は男性であり,男性なりの視点があると思うのですが,女性の身体化された意識ということがこうした問題につながっているのかなと思いました。仲先生のお話でも,おおいなる力があるということがベースとしてあり,「つくる」「つくらない」とコントロールするという話がある一方で,生命体として,動物として大きな力の中に枠づけられている,その両方があるのだろうと思いました。
根ヶ山光一(ねがやま・こういち):早稲田大学人間科学学術院教授。主著に『ヒトの子育ての進化と文化―― アロマザリングの役割を考える』(有斐閣,2010年,共編),『アロマザリングの島の子どもたち』(新曜社,2012年)など。→Webサイト
この本を印象深く読ませていただき,人口という問題は切り口として面白く,重要だと思いました。以前に,園原太郎(そのはら・たろう:1908-1982)という発達心理学者がおられ,ある研究会で「縮尺の思想」ということをおっしゃっていました。ズームアップすれば細かいものが見える。ズームを引いていくと細かいものが見えなくなり大きな視点でとらえられるようになる。トリの目・アリの目に近い発想かもしれません。そのように見たときに,人口という切り口で切ると,アリの目ではなくトリの目からこうした問題がいろいろと見えてくるなと感じました。この本の中には心理学者以外の人が多く書かれているわけですが,心理学から足を放していろいろな学問の学際的な研究の中でとらえるべき問題だなと思いました。
私自身の自己紹介ですが,もともとサルの動物行動研究をしていました。誰が父親かということは特定が難しい時代でしたので,母子関係の研究をしていました。その中で,まれだけれども母ザルが子ザルを噛む行動が見られ,駆け出しの頃の私にとって非常に気になる現象でした。その頃はアタッチメント研究が隆盛であり,子どもは親に接触を求め,親はそれを守ると言われていたなかで,「でも,母親が子どもを噛んでいるよ」と思い,そうした現象への関心から,母親が子どもに対して対立的・反発的な行動をとることのポジティブな適応的な意味を考えようと,そういう足場を立てました。最終的には「子別れ」ということに集約していくわけですが,母親が子どもを噛んだり威嚇したりすることが,親行動として意味のあることだということです。アタッチメントからは落ちてしまう視点だけれども,プラスとマイナスがバランスをとりながらダイナミックに子育てがなされているということが,これまでに考えてきたことです。そうした中で,異なる文化を比較したり,沖縄の小さな島に行き,子別れのことを考えたりしています。子育てには,子どもを守り,子どもを育て,子どもも親になつき,愛情を交わすというプラスの面が必要なわけですが,陰の部分にも注目して両方を見るなかで包括的に親子の関係を説明するということを大事にしています。
人口の問題も縮尺をずっと下げて広くトリの目で見ていくなかで,個と個のやりとりで記述できる親子の問題や夫婦の問題も実は,家族が親子や夫婦やきょうだい関係を取り込んだシステムであり,家族と家族が出会うところで地域や社会ができてくる,そうした広がりの中でとらえられることを,この本は考えさせてくれました。このことは私がやってきた子別れの研究と深くつながっていると思います。
男性は,なかなか身体化して考えることが難しいということはありますが,裏返してみると,客観的にクールに見るということができるのかなと思いました。母親が子どもを噛むことも,男性的な視点,クールな見方である気がします。男性なりの観点もあり,自分がこの立場に立っているのかなと思います。
もう1つの私の興味としてアロマザリングがあり,柏木先生と一緒に『ヒトの子育ての進化と文化』を編集し,高橋先生にもご執筆いただきました(3)。マザリングを他者がするということが,子どもが親から離れるにためには重要な役割を果たしていると思っています。入ってくる他者は,ヒトだけではなくモノやシステムであることもあると思うのですが,人工的な産物としてのモノやシステムが子育てに関与して,調整されてヒトの子育てが展開していると考えています。文化によってもその様相は違うと思います。親子の身体が分離するという現象があるときに,文明の産物,人間の知恵がつくり出したものが人間の身体性に影響を与えていることがある。そのことがどういった功罪を生むのかを考えてみたいとずっと思っています。我々が人口の問題に取り組む際に,人間の独自の人工的な要素によって子育てや介護が左右されることがどういう意味をもつものかについて,プラス・マイナスの両方を見ていく必要があるのかなと思いました。こうした観点から我々が子育ての問題に取り組んだり,考えたりできることは,我々にとって功と罪の両方があり,それをじっくり考えていく必要があるかなと思います。
『人口の心理学「へ」』という展望について,先ほど柏木先生がおっしゃいましたがまさに私もそう思いました。こういう問題をトリの視点から我々が考えうるという能力が,これからの我々の子育てや介護をどのようにしていくのか,功と罪がどうなっていくのかということをぜひ今後の展開の中で教えていただきたいなと思いました。
柏木:
いまのお話について私の視点からお話しさせてください。対立としての母子関係のことをサルの研究から話されましたが,そのことが私にとって非常に印象的でした。先ほど触れた1999年の研究の中では父親と母親を対象にしました。それまでは親子関係というと父親を除外していましたが,父親と母親において子育てがどのような意味をもっているかを比べたのです。かわいいとか自分の生きがいだとか,ポジティブな感情は父親も母親も変わりません。しかし,いらいらする,子どもがいなければと思う,憎らしくなるといったネガティブな感情は父親よりも母親の方が高かったのです。母親は対立と肯定の2つの感情をもっていることがあらわになりました。なぜネガティブな感情をもつのかを,父親が育児をまったくしない人と育児をする人とに分けて比べてみると,まったく育児をしない父親ほど子どもに対する否定的感情が低かったのです。つまり母親は日常的に子どもの世話をしていて,昔のように子どもの世話をしたら自分の命はそれで十分だと思う時代ではなく,やはり自分もこうしたいということがあるときに子どもが自分のところにやってくると「ああっ!」と思う,そういう育児体験は今日のものです。そういう意味でネガティブな感情が現在の人口動態的な状況の中でクローズアップされてきた。男性は育児をしないので,「かわいい」だけですんでいるけれども,女性はそうはいかない。対立としての子どもという観点は,自分が生きるということとの関係で非常に重要だと思います。