人間の命と死,そして心――『人口の心理学へ』が問いかけるもの(1)
Posted by Chitose Press | On 2016年08月10日 | In サイナビ!, 連載[3]命の意味の変化
3つ目の問題は,命の意味が変わったということです。少子の時代は昔にもありました。たくさん子どもが生まれたけれども幼くして病気などで次々に死んで2人だけが残った,というようなことはいくらでもありました。少子は珍しいことではありませんでした。このような理由でかつては「少子になってしまった」のですが,いまは意図的に「少子にする」のです。つまり,子どもは授かるもの・取り上げられるものではなくて,親がつくるものになりました。1人でいいと親が決めて生まれてくるようになりました。子どもの命が“人智”を超えたものではなくなりました。このことはいろいろな影響を与えていると思います。
私が最後に勤めた大学へは駅からスクールバスで通っていて,学生の会話をよく耳にしました。ちょうど5月くらいに新入生同士が自分の家族のことを話していました。ある学生が友だちに向かって,「その子がいたら私はいなかったの」と言っていました。どういうことかと思ったのですが,その友だちも「どういうこと?」と尋ねていまして,学生は「姉が死んだから,親は私をつくったの」とさらっと言いました。ああ,こういう時代になったのだなあと思いました。これがうまくいっているうちにはいいですが,そうとは限りません。臨床的な問題もあります。平木典子先生もたびたび書いておいでですけれど,昔と違って,よかれと子どもにやっていることが,本当の意味で子どもにとってよかれではなくて,親のつくったものに対する過剰介入,ゆがみなのではないかと思います。命が人智を超えたものからそうではなくなったことの表れだと思います。
また,生まれてくる子どもだけではなくて,子どもの死についてもそうです。いまは日本の乳児死亡率は世界一低く,1000人中2人くらいです。戦後直後は50人くらい亡くなっていたのが,いまは子どもの命が非常に強靭になった。強靭になったということがどういうことか言うと,子どもは死なないもの,産めば育つという確信をもつようになった。これは医学の進歩によるわけですが,そうはいっても事故や医療の問題などで子どもが死ぬことがあります。そのときの親の嘆き,そして怒りがすごいものになりました。私は小さい小児科の病院をもつ医者の家に育ちましたので,子どもが死んでしまう場面をよく体験しています。親たちが私の父母に対して,「十分にしていただきました」と言って亡くなった赤ちゃんをおんぶして帰っていく姿が目に焼きついています。その時代の人たちは,子どもの命ははかないもので,できるだけのことをしてもどうしようもない,という人間以上の力を信じていました。
本の中にも書きましたが,ドイツのデューラー(1471~1528)という画家がいて,13人の子どもが生まれたのですが,残ったのはたったの3人でした(4)。残った3人も,「神が許したもう限り生きている」と述べています。人間の命も死も,人間がつくるもの・絶対に育つものではなく,もっと謙虚なものであったのにと思います。
[4]長命は長寿か
最後は,高齢化の問題です。端的にいうと,長命になったことを長寿といえるか,という問題です。これは私自身が年をとってきたときに,もっともっと生きたいとは必ずしも思わない,ということも関係しています。年をとれば誰でもどういう形にせよ,誰かのケア,誰かの力を借りることになる。そのことの意味,とりわけ子どもからケアを受けることの意味を考えることが非常に重要だと思っています。日本や中国などの儒教の国では親孝行は美徳だとされてきました。親は子どもを育て,年をとったら子どもが親を支えるというのが循環だとされてきました。けれども,それが限界に来ているということをコラムで深谷昌志先生に書いていただきました(5)。その循環が構造的にできなくなってきた。親が年をとったときに,子ども自身が介護を必要とすることさえある。
長命ということは,新しい親子関係を提起しています。子どもが一人前になったら,教育が終わったら,親から子どもへの養育や投資は完了する。あとはそれぞれが経済的に別個に生きるという必要があるのではないかと思っています。子どもから手厚く介護をされるということはいかにもよいことのように言われるけれども,私はそのことが子どもの人生を破壊していると思います。親にとっても子どもにとっても,どういった老後を過ごすかという大きな課題に直面していると思います。昨今,パラサイトという問題が起こっています。親がお金をもっていて子どもにいつまでも投資し続けることは,子どもも楽ちんでよいと思う風潮があるかもしれませんが,子どもの自立する力をそいでいるのではないかと思います。
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これらが,私の問題提起です。とりわけ先ほど述べたように,家事にしろ育児にしろ介護にしろ,日本ではずっと女性が担ってきた。男性は自分がケアされると思っている。ある高齢者住宅で妻が亡くなった男性が,「妻が生きていればこんなところに来なかった」と話しそうです。「ケアされるのが当然だった」「面倒を看てもらうのが一番楽ちんでいい」という前提が崩れないのです。しかし結婚の様子も変わりました。以前のように夫婦間に年齢差があればそれも通用したかもしれませんが,いまは夫婦の年が近いし,男性の方が若いこともある。そうしたときにケアをする力がない,ケアは受けるものだと思っている人は大変悲愴なことになります。「粗大ごみ」の男性がどうなるのかということにも,私は関心があり,研究課題としていました。そういう意味ではジェンダーの視点が,とりわけ日本においては欠かせないかなと思います。
(→第2回に続く)
人口が減り始めた日本。私たちは命にどう関わるべきか? 命についての問題――生殖補助医療,育児不安,母性,親子,介護,人生の終末―に直面し苦悩し,格闘する心を扱う「人口の心理学」の提案! 心理学のみならず,人口学,社会学,生命倫理,日本近代史の第一線の論客が結集し,少子化,高齢化,人口減少に直面する日本社会のあり方を問う。
注・文献
(1) 柏木惠子・高橋惠子編 (2016).『人口の心理学へ――少子高齢社会の命と心』ちとせプレス
(2) 柏木惠子・永久ひさ子 (1999).「女性における子どもの価値――今,なぜ子を産むか」『教育心理学研究』47, 170-179.
(3) 柏木惠子・高橋惠子編 (2008).『日本の男性の心理学――もう1つのジェンダー問題』有斐閣
(4) デューラー,A.(前川誠郎訳)(2009).『自伝と書簡』岩波文庫
(5) 深谷昌志 (2016).「「親孝行の終焉」の示唆するもの」柏木惠子・高橋惠子編『人口の心理学へ――少子高齢社会の命と心』ちとせプレス,p. 180.