知覚的リアリティの科学(4)
社会に活きるリアリティ
Posted by Chitose Press | On 2016年07月22日 | In サイナビ!, 連載VRコミュニケーション
家庭にVRが導入される場合に容易に想定できるのは,リアルなテレビ電話のようなものです。子どもが遠くに住む祖父母と一緒に部屋で遊んだり,単身赴任している親と家族が食卓を囲んで一家団欒を過ごしたりすることができます。むしろ,わざわざ会社に行って行う仕事や赴任して行う仕事がVRを介して在宅でも可能となり,私的生活は現実の空間で,仕事はVRでというふうになるかもしれません。
しかし,テレビ電話や遠隔会議システムはすでに技術的に可能ですがあまり使われていません。むしろ音声通話すら衰退しており,e-mailやチャットといった情報量の少ないコミュニケーションが主流となっているのに,本当にVRはコミュニケーションに使われるのでしょうか。1つの可能性として,現状のテレビ電話や遠隔会議システムのリアリティの中途半端さが利用の障害となっていると考えられます。まわりを見渡しても常に目前の「そこ」に相手がいるというVRのシステムは相手の存在感を圧倒的なものにします。相手の気配を感じる,相手と自分が同じ空間に同時に存在していると感じることがVRではじめて可能となります。視覚的なリアリティが高まると実際に触れるような気がしますし,触りたくなります。触覚を伝える技術開発も進んでいます。それらによって会話が弾み,共同作業が効率的になることが期待されます。
VRの社会実装
現在,最も注目されているのは,ゲームや映画,アミューズメントパークなどのエンターテインメント分野です。大規模VRではすでに実績のある領域であり,ディズニーランドやユニバーサル・スタジオではすでに多くのVR技術が利用されています。ユニバーサル・スタジオはVRの新しい技術の導入に貪欲で,さまざまなアトラクションにVRが応用されています。ディズニーは,みずからの研究所で最先端のVR関連研究を行っています(5)。HMDを用いることでVR空間への没入感が高くなり,また家庭でも楽しむことができるようになり裾野が広がることから,産業界はその経済効果に注目しています。
VRはその誕生当初から空間の体験,シミュレーションに用いられてきました。松下電工はシステムキッチンの注文前にそれをVRで体験できるシステムをすでに1990年に導入していました。自動車のモックアップの代わりや,建物,室内デザインの体験など企業や企業研究所を中心に大型のシステムがあります。フライトシミュレータもVRの一種といえるでしょう。実際の飛行機を飛ばして訓練するのは非常にコストが高く,かつ危険ですので,ここにはVRの優位性があります。また,避難訓練や災害の体験にも使われています。地震や火災などは実際に起こすことはできませんから,リアリティの高いVRが訓練や体験の質を高めるために有効です。
ちょっと変わったところでは,恐怖症やPTSD(心的外傷後ストレス障害)の治療にVRが使われています。恐怖症はある特定の対象に異常な恐怖を感じるものです。対人恐怖症,高所恐怖症,飛行機恐怖症,クモ恐怖症などさまざまあります。これに対する治療法の1つは暴露療法で,専門家の指導のもと恐怖を感じる対象への経験を積むことで克服するものです。しかし,恐怖対象ですから,そうそう近づいたり触れたりすることはできません。かなりの努力や覚悟が必要です。そこで,VRを用いた暴露療法が行われています。VRではリアリティを操作することができます。クモ恐怖症であれば,ただの黒い箱から,だんだんとクモの形に近いものへと変化させること,動きを追加していくことなどで,徐々にクモとしてのリアリティを上げていくことができます。患者は少しずつクモらしいものに暴露していくことができ,心的負荷が軽くなります。災害や戦争の体験によるPTSDの治療においても,実際の出来事をもう一度体験することはできませんが,VRであれば近い状況を,リアリティを操作しながら体験することができます。911のワールドトレードセンターでの被害者のPTSD治療に適用した例などが報告されています(6)。