パーソナリティのそもそも論をしよう(3)
Posted by Chitose Press | On 2016年04月11日 | In サイナビ!, 連載小塩:だから経済学者が来るんですね。何年前かにアメリカのARP(Association for Research in Personality)(2)に出たときにヘックマンが講演に来ていて、パーソナリティ心理学者たちはどうなるんだと注目していました。最近日本で刊行されている行動経済学や教育関係のエビデンスのあるものが必要だという本の話って、こちらで見つけたものを行政的に応用するというものですよね。
渡邊:その知見をどこにもっていって使ってもらうかの方が大きくなっていて。行動経済学をやっている人が何を指標にしているのかと思ったら、質問紙なんだよね。
小塩:そうです。
渡邊:帯広畜産大学の経済学者が本を借りに来たんだけれど、何かと思ったら心理尺度集でした。異常や臨床のテーマだと、それが役に立つ場所が見えやすい気がするんだけど、ポジティブ心理学に関しては、誰の幸せがどこで実現されるんだろうということを考えてしまうのと、先ほど言った特定の幸福の姿がいいものとされちゃうということがあります。文系の学問が価値を言うことの怖さってそこにあると思います。何か特定のものを宣伝することになるじゃない。
北村:むしろ、経済学の方から幸福やウェルビーイングを言う理由はわかるんです。心理学でそれを強調しなければいけない理由はわからないところがあります。身もふたもないことを言えば、経済学的に言えばある種簡便な方法で幸福感が上がるのであれば、それはまさに「経済的」なわけで。人間関係という、経済学でいえば費用がただみたいなもの、つまり社会関係資本ですが、そういうもので人々のウェルビーイングが上がり、革命も起こさず、安定した社会で生産性が上がればいうことはないわけです。
心理学の立場だと、いろいろ多様でもいいんじゃないか、というところを価値として私は言いたいように思います。多様さの承認みたいな。幸せの型というか、幸せはこういうことで説明できますと作っていったりリストアップしていったりするのはどうしても違和感があります。
渡邊:先ほど北村さんが言った典型的なものって、災害の被災地に家を立てたり食べ物をもっていったりする前に臨床心理士を送り込むみたいなことってあるじゃないですか。あれは実際には効きめがないみたいですが。例えば、ああいうことが実際に、家を建てたり食料をもっていったりすることよりも心理学的なケアをした方がその後に被災者の主観的な幸福感が高いということになれば、ものすごくお金の節約になる。経済政策的にはすごく役に立つことになってしまうんだけど、「それって、どうよ」と素朴に思ってしまいます。そういうことに心理学が役に立つってどうなのか、と。そこも心理学者の価値観なんですけれども。最近の倫理学を見ていても、アメリカやイギリスの人たちが、こういうのが正しいといことを言いたがるじゃないですか。心理学でもそういうことがだんだん関わってくる問題になってきたなあと感じます。
北村:震災が起きたのは寒い時期だったから、湯たんぽでもそういうものをもっていけばすごく役に立つわけだけれど、臨床心理士が話を聞きに行って心が温かくなると言われるかわからないですが、そうであれば費用の節約になりますよね。それでいいのかという問題ですよね。
渡邊:それでいいのかというときに、何が悪いんだと言われてもよくわからないんだけれどね。なんとなく嫌なだけでというか。俺ぐらいの世代が教育された知識や考えの内容は、そういうことがよくないという感じだったんだと思うんです。反射的にこういうのはダメと思ってしまうことはあります。先ほどの予測研究でも、どうしてもそれを見てそれじゃダメじゃないか、それはいけないんじゃないかと思ってしまうんですよね。それってまさに価値なんで。
われわれもそういう研究の成果を価値で判断する基準をもっているわけですよね。それをあんまり自分が価値で判断しているとは思っていなくて、「貧しい人も同じように教育を受けてみんな共通のレベルに達することが良い」ということをイデオロギーだと思っていないんですよ。特に私より上の世代が、イデオロギーと思っていなくてももっているイデオロギーみたいなものが、いまどんどん出てくる新しい研究と摩擦みたいなものがあって。
もちろんすごくプリミティブな感じで、遺伝研究のようなものに対する嫌悪感をもっている人はいるよね。俺ぐらいの年齢だと、それはもうないですけど。遺伝と言ってしまうことが政治的に正しくないということがまだまだあります。われわれが院生の頃はそれがものすごく強かった。遺伝なんて言うだけでダメというところがあった。1980年代くらいには、詫摩先生とか、安藤寿康先生の研究って、そういう批判を受けていたと思います。
小塩:そうでしょうね。
渡邊:その感じをまだ残している人っているだろうし。俺の中でもまだ残っている気がします。それは違うんだということを最近は強く考えていて、自分のイデオロギーとしては環境論の方がヒューマニズムだと思っているところがあったんですよ。今頃かって言われるかもしれませんが、ようやくそこを相対化できるようになってきて。予測しようとするのもコントロールしようとするのも、誰が何のためにするかであって、コントロールがヒューマニズムで予測や選抜がヒューマニズムじゃないなんてありえないですよね。
たまたま、われわれより少し前の世代は、選抜や予測がアンチ・ヒューマニズムになりやすい時代や社会で、コントロールがヒューマニズム的になりやすい時代だったんでしょう。社会心理学の黄金時代である1960年代、70年代くらいは、環境的なコントロールがヒューマニズムだということがあったんだと思います。それで教育されてきた自分たちがいたんじゃないかなと思いますし、それはきちんと相対化しないといけないと思います。むしろ、いまは心理学概論の授業を受ける学生にしてみたら、学習理論でコントロールされる方が嫌だというのが強いかもしれない。選ばれる方がいい、みたいなところがあるかもしれないですよ。そういうこともすごく変わっていくよね。
(→続く:近日公開予定)
文献・注
(1) ダンジガー, K.(河野哲也監訳)(2005).『心を名づけること――心理学の社会的構成(上)』上・下,勁草書房など。
(2) ARP(Association for Research in Personality)のウェブサイト