パーソナリティのそもそも論をしよう(1)

変わるものと変わらないもの――遺伝と環境をめぐって

渡邊:最初に、変わるもの変わらないもの、として遺伝や環境の問題を考えていきたいと思っています。これは、パーソナリティ心理学の中で昔からずっと、そしていまでも議論されている大きな論点です。詫摩先生は遺伝の研究、双子の研究がご専門で、日本で双子研究が始まった初期の頃からご存じでいらっしゃいます。少しお話を伺えればと思います。

詫摩:古い話ですが、私がドイツに留学して帰った頃に、双子の研究は第一次大戦と第二次大戦の間にドイツで非常に盛んでした。ヒトラーが政権をもっていた頃、ドイツ民族の優秀性を証明するために、双子の研究が盛んでした。その中心人物であったクルト・ゴッシャルト教授(9)が戦争が終わった後、ベルリン大学の教授をしていました。当時のベルリンは東ベルリンと西ベルリンに分かれており、教授はもともと東ベルリン大学にいました。1957、8年頃にゴッシャルト教授を訪ね、双子研究の面白さなどを伺いました。

ゴッシャルトはベルリンの壁ができる直前に西ドイツに脱出し、ゲッチンゲン大学の教授になりました。ゲッチンゲン大学は西ドイツにありましたので、何度か私も訪ね、話をしたことが数回ありました。ゴッシャルトの自宅に行き、双子研究の話を何度もしました。私も双子の家庭を訪ねたりしたことがあります。

双子の研究はドイツ民族の優秀性を証明するためのものでした。ドイツの双子研究は英語圏に紹介されませんでしたが、日本人がたくさんドイツに行き、特に精神科の先生方はドイツに行き、双子の研究をされてきました。

内村鑑三先生(10)の息子である、東京大学の内村祐之教授(11)がドイツの双子研究をつぶさに見学され、それを東京大学の精神科の先生に教えておられました。そうこともあって、戦後に東京大学の附属中学校ができたときに、特色をつけた方がよいだろうということで、双子の子どもを優先的にとることになりました。毎年20組の双子を検査をして入れることになりました。いい機会だということで、双子の研究者たちがたくさん集まって、指紋の研究をしたり、視力の研究をしたりしました。私は駆け出しの卒業生でしたが、知能検査の研究をしたり、ちょっとした知的動作の研究をさせてもらったりしました。それが後の双生児研究班に発展していきました。

人間は親やきょうだいとの顔が何となく似ているように、形のある身長とか体重とかのほかに、怒りっぽいとか憂うつ気味であるとか性格的な、形のない心理学の関わる特徴についても遺伝というものがあるのではないだろうか、と考えていました。私は知的動作がどのくらい遺伝するのかということについて、ドイツから帰ってきてからたくさんの双子についてデータを集めました。700~800人くらいの双子たちに会った覚えがあります。それを30代の終わりくらいに私の学位論文にまとめました。

双子を選んで、野尻湖や山中湖などに連れていって合宿をしました。双子たちが朝起きてから夜寝るまでの行動をくわしく観察するということをしました。1日十何時間も子どもたちの行動を眺めていたこともありました。いまでも印象に残っているのは、野尻湖に中学校1年生くらいの男の子の2組の双子と、私の前に2人、後ろに2人、子どもたちと一緒にボートで岸を離れたところ、霧が出てきて、まるで見えなくなってきました。浮かんでいればいつか戻れることはわかっていましたが、まるで先が見えなくなったので、双子は心配そうにして、1組の双子は「先生、大丈夫ですか」と泣き声を出していました。私がうまくない歌を歌ってから元気を出そうとしたのですが、1つのペアはあわせて喜んで歌を歌っていましたが、もう1つのペアは泣きべそをかいていました。その対照が非常に明確でしたので、こんなところに出るんだなということが印象に残っています。ほかには寝相の研究などもしました。

しかし、だんだんと双子の研究が継続しにくくなりました。双子の研究は一時非常に盛んになりましたが、かなりプライベートなことにも立ち入った質問もしますし、どこかに連れていくときにはこちらで費用を用意しなければいけません。そういう費用を集めるということも、難しくなってきました。なにより、双子だけを連れていって、他の子どもたちは連れていくことができないということが、学校全体にとって好ましくないということから機会がなくなってしまいました。双生児合宿をすることも難しくなってしまいました

渡邊:詫摩先生から、戦前のドイツの双生児研究が日本に入ってきて、という話を伺いました。若い方はどういう歴史感覚でいまのお話をとらえられたのでしょうか。パーソナリティの研究は何度も繰り返し遺伝優位になったり環境優位になったりします。自分の世代を考えると、遺伝の研究はひと世代前の先生方がすごく熱心にされていて、15歳上ぐらいの方から環境論が強くなってきたと思います。私が大学院に入った頃は、パーソナリティの遺伝論はあまり人気がありませんでした。詫摩先生を始め何人かの先生がやられていましたけど、私たちが学生の頃だと養育環境や育て方がパーソナリティに一番影響を与えるというのが主流の考え方で、環境論が強い時代でした。

ミシェルのPersonality and assessmentが出たのが、1968年です。1980年代の前半はパーソナリティの環境論全盛みたいな感じだったと思います。そうはいっても、その問題のそもそも論があったかというと、そうでもない。養育環境や養育態度とパーソナリティの関係を研究するような実証研究が山ほど行われているだけで、遺伝論から環境論に代わったと誰かが言ったわけではない。パーソナリティの環境論はこういうものだとはっきり書いてあったりもしませんでした。そこが不思議な感じがしました。

私は社会学部で社会心理学を学びましたが、社会心理学は流行がはっきりと変わっていきます。私の頃は、「これからは社会的認知だ」と言っていました。その2、3年後に、「これからは自己だ」となった。そういう社会心理学の分野から来たので、特に私はパーソナリティ心理学という分野がよくわからなかった。はっきりせずに、そのあとも漠然といつの間にか流れが変わっていきました。その頃は環境重視でしたけど、そのもとになっているのは何なのかというと、それはないわけです。そういうことが気になりました。

最近すごく遺伝優位になってきているように私は感じるのですが、みなさんにとってはいかがですか。それとも最初から、遺伝の指標をとることは当たり前でしょうか。

フロア:大学の頃にパーソナリティを習ったときだと、「昔は遺伝とか状況とか言われていたけれど、いまはどっちもあるよ」と授業で習いました。遺伝的な指標をいろいろとるようになったという話は、最近聞くようにまたなったなと感じます。それはいろいろと発展して研究ができるようになったからかなと思います。

渡邊:そうすると、パーソナリティ心理学の知識を勉強したときには昔は遺伝と環境の論争がありましたが、いまは両方ですと言われたわけですね。両方でもないよね、小塩先生。

小塩:そうですね。僕の大学院時代が1990年代ですが、大学、大学院のときはあまり遺伝は出てきていないように思います。ですので、あまり遺伝のことを考えたことがありませんでした。変わってきたのは2000年に入ったくらいですかね。安藤寿康先生(12)は1990年代には遺伝の研究をすでにされていたと思いますが、他の方は遺伝をあまり取り上げられていませんでしたね。

渡邊:1985年だったら、日本の心理学者で論文の中に遺伝のことが書いてあるのは詫摩先生と安藤先生くらいしかいなかったよね。本当にあっという間だったというのが私世代の認識です。今年まで『パーソナリティ研究』の編集長をずっとしてきましたが、遺伝指標が入っている論文がこの数年でどんどん増えました。30歳前後にかけての若い人たちです。


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