こころに傷を負うということ
阪神淡路大震災被災者と臨床家のレンズから見るトラウマ
発行日: 2022年11月30日
体裁: 四六判上製176頁
ISBN: 978-4-908736-28-5
定価: 2000円+税
内容紹介
何が私とあの人の運命を分けたのだろうか?
被災し、サバイバーズ・ギルトに苛まれた一人の臨床家。被災者と臨床家のレンズが交差するところから見えてきた、災害によるトラウマの様相、ケアとサポートのあり方とは。
目次
第1章 私に起きた阪神淡路大震災
第2章 母親として被災地を生き抜く
第3章 後遺症
第4章 サバイバーズ・ギルトの普遍性
第5章 災害後のケアとサポート
第6章 トラウマとPTSD
第7章 こころに傷を負うということ
まえがき
正月気分も去り,成人式の華やいだ空気がひと段落するのを待っていたかのように冷え込んだ三連休明けだった。一九九五年一月一七日,私は兵庫県西宮市において,震度七を家族とともに体験した。当時は,まだ幼い長女と長男,そして私のお腹には宿ったばかりの次男がいた。長女の出産間際まで仕事をしていたが,長女出産と同時に子育てに専念していた時期だった。
親族の住まいは神戸市と西宮市に集中していたが,全員無事で,それぞれの自宅は大きな損壊を免れた。そのことはありがたいことなのは間違いない。しかし,「無事」を確認して,互いにホッとしたのは,あの大きな一撃の直後だけであった。
時間の経過とともに,被災地の惨状を目の当たりにし,周囲から入ってくる被害状況で,自分と家族・親族は偶然生き残ったにすぎないということを思い知ると,「私や私の家族・親族は幸運だった」と胸をなでおろすという気持ちにはならなかった。むしろ,「なぜ私は生き残ったのか」という問いかけ,「無傷」でいることの罪悪感が強烈に押し寄せてきた。「サバイバーズ・ギルト」である。
それからというもの,私は,「なぜ私は生き残ったのか」という哲学的な問いかけの答え探しをすることになる。「答え探しのアテのない旅」。答えなどどこにもないのはわかっていながら。
私は,阪神淡路大震災から二一年後に臨床心理学系の大学院においてトラウマの研究と心理技術の習得を開始した。被災者と臨床家のレンズが交差したとき,そのときの身体反応と記憶に新たな言葉が次々と与えられた。
それ以前から,その記憶にアクセスすると全身に電流のしびれのような感覚が足元から突き上げ,頭のてっぺんから抜けていき,それが何度も繰り返されるという身体感覚があった。もちろん,本当に電流でしびれた体験はないし,そのような体験をした人もほとんどいないと思いながら,この表現が最も合っている気がする。
しかし,それが何なのかがわからなかった。そもそも,ずっと長年続いていたため,あまり意識せずに,その身体感覚と共存してきたというのが実際のところで,その身体反応にようやく気づいたのが,心理技術の習得を開始してからである。
私は,最近まで「被災者」と名乗らずにきた。長年勤務していた職場でも少数の人にしか明かしていなかった。
その職場で,こんなことがあった。阪神淡路大震災で近しい人を失った同僚のAが,毎年一月一七日には年休を取得していた。年休取得の事由を知っているのは私だけだった。ある年のその日,別の同僚Bが「なんでAさんは今日休みなの? そういえば昨年もこの日休んでいたよね。この忙しい時期に理由も言わずに!!」と私に鬼の形相を向けてきた。あまりの勢いに驚いたが,私は静かに言った。「だって一月一七日だから」と。すると,Bはさらに驚く言葉を私に投げつけた。「それがいったい何よ」。もはや,私には返す言葉がなかった。黙ってまっすぐBの両眼を見る私に,みるみる不安な表情になったBは,おそるおそる言葉をつないだ。「え,一月一七日って,何かあるんですか? 何かの日なんですか?」。私たち被災者にとっての時間の経過とのズレを突き刺され,鈍い痛みを感じた瞬間だった。「当時遠方の地域に住んでいたこの人が,一月一七日に特別な意味をもっていなくても当然」と自分に言い聞かせて,Bの両眼から手元のファイルに目線を移して,「阪神淡路大震災」と独り言のように言って,会話を強制終了させた。Bは,くるりと背を向けて自分の席に戻っていった。
席に戻って何事もなかったかのようにパソコンに向かっているBの背中を見ながら,Aが年休の取得事由を明かさない意味をしみじみと悟った。同時に,あらためて「被災者」と悟られまいとも思ったのだった。足元から頭のてっぺんまで走る電流のしびれのような感覚を覚えながら。
成人矯正専門職の仕事で,私は行き詰まりと自分自身の能力の限界を感じて,トラウマを研究するために大学院で学ぶことにした。二〇一六年の春のこと。仕事が終わってから毎日神戸ハーバーランドに通うことになった。
臨床心理学系の各専門科目の授業の初回で,それぞれの先生方は,自己紹介で自身の阪神淡路大震災の被災体験を紹介した。お住まいだった地域の当時の新聞記事や写真を示されていた。中には,家が全壊したと語る先生もいらっしゃった。先生方のほとんどは,直後から,避難所や医療機関を奔走されたというエピソードを,テンポよく語っていらっしゃった。誤解のないように補足するが,テンポよくというのは,軽々しいというものではない。よく言う「笑うしかない」という類のものでもない。関西特有の「ギャグ」「ネタ」とも違う。とにもかくにも,私にはこの「テンポ」が,なんとも新鮮だった。この「テンポ」が私の「阪神淡路大震災の記憶」をしまってある部屋の錆びた扉に心地よく響いたのだ。別のテンポやフレーズだったら,錆びた扉はますます固く閉ざされたことだろう。「こんなふうにテンポよく語ってもいいんだ」「だったら私にも語れるかもしれない」「いつか語ろう」と思ったのだった。
これまで私が「被災者」と明かさなかったのには三つ理由がある。一つは,家は一部損壊,家族・親族全員身体は無傷,避難所生活を経験していない私が「被災者」と名乗るのはおこがましいという思い。それから,生き埋めになった人の救出作業やがれきの撤去,避難物資を配るなどの地域住民としての役割を果たせなかったという罪悪感とサバイバーズ・ギルト。そして最後は,「被災者」というレッテルを貼られることで不利益を被る恐れと,「弱者」として妙な同情を寄せられること,つまり劣位に置かれることへの抵抗感があった。この恐れや抵抗感は,スティグマの影響であるといまならわかるが,当時はまったく自覚していなくて,おこがましいという感覚とサバイバーズ・ギルトを含めた強い罪悪感しか認識できていなかった。これらをトータルして,私自身のアイデンティティに関わることになるのだが,当時は「おこがましい」「罪悪感」という感情で「恐れ」や「抵抗感」を包み込み,私自身の精神的なバランスを保ち続けていた。「被災者」と明かさないことを正当化することで,自分自身が認めたくない感情に目を向けないようにしたともいえるかもしれない。社会的な「弱者」に対するスティグマが私の細胞の隅々にまで生息していたのだろう。
大学院での先生方の語りのテンポは,私に生息しているスティグマにはさぞかし居心地の悪いものだったようで,とっとと退散していった。スティグマが退散すると,これまでスティグマと芋づるになっていた恐れと抵抗感がニョキッと顔を出してきて,こちらもスティグマに引きずられるようにさっさと立ち去ってくれたのだった。
スティグマ,それに付随する恐れと抵抗感がなくなると,被災体験が私にとって人生の転換期になったことをあっさりと真正面から認めることができたし,連鎖的に「被災者」であることは私自身のアイデンティティの一部として揺らぎないものと位置づけられた。おそらく,私の「答え探しのアテのない旅」もそこで完全に終わったと思われる。まるで他人事のような書きぶりだが,私は途中で答え探しに飽きて旅を放り出したため,「終わった!」という実感がまるでないのだ。でも,「終わったのだ」という確かな手ごたえが,いまの私にはある。
不思議なもので,足元から突き上げ,頭のてっぺんから抜けていく電流のしびれは,気づくと消えていた。
本書は,当時の被災体験を被災者とトラウマ臨床家のレンズが重なったところから書き起こし,災害によるこころに傷を負うということについて,私自身と社会への問いを言語化するものである。
第1章から第3章までは,被災体験の書き起こしが中心で,第4章では,阪神淡路大震災から話題を広げて,臨床体験をもとに「サバイバーズ・ギルト」の普遍性に触れている。第5章と第6章では,トラウマや回復についての理論を紹介しつつ,災害の被災者・被害者に対するケアとサポート,回復のあり方について問いを投げかける。第7章では,回復の妨げになっている「サバイバーズ・ギルト」の下層部にある「スティグマ」「文化的トラウマ」理論を紹介している。
昨今,トラウマとPTSDに関するいくつもの心理技術が海外から輸入されているが,個人の体験だけを治療のターゲットにすることは,むしろ「スティグマ」を強化してしまいかねない。個人の体験を超えて「スティグマ」「文化」という社会学的な視点が入ることで「トラウマ」は俯瞰が可能となる。俯瞰は生きる力になることを本書を通して伝えたい。
トラウマとPTSD,回復の理論については,専門書を目指していないため中途半端になってしまっている点はお許しいただきたい。第5章の末尾に関係機関やインターネットで閲覧できる資料を紹介しているのでそちらを参照していただき,各自治体のみならず各家庭の備えにしていただければ幸いである。
ところで,本書ではトラウマ領域で共有されているワードをあえて取り入れている。たとえば,「身体反応」「記憶へのアクセス」「記憶の処理」などがそれである。トラウマの事例は,専門領域での洗練されたワードを使用することによって正確に伝えられるということと,それ以上に大事なのは,被災者と臨床家の二つのレンズが交差するところを表現するために,被災体験に引っ張られ過ぎず臨床家としての視点を損なわないでいるためでもある。長い年月,言葉にならなかった感覚を表現するための言葉選びは,やはりとても慎重にならざるをえず,私にとっての拠り所でもある。
そして,ところどころで専門的な分析と解釈を挿入している。その分析と解釈は一人の臨床家の見立てにすぎない。臨床家によって見立てが分かれる部分もあるし異論もあろう。正解はあるかもしれないし,ないかもしれない。
いずれにしても,被災者と臨床家の二つのレンズが交差するところを書き起こすことは,私の個人的な人生にとっての大仕事であることに違いないし,それを一般化することはできない。しかし,その私の個人的な大仕事が,人々のトラウマに対するスティグマの低減と現在生きづらい人たちのこころの落ち着きに,ほんの少しでも寄与できるならば,これほど嬉しいことはない。
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共同通信に取り上げられました。「心理師が語る阪神大震災 「生き残った罪悪感」描く」(2023年1月16日)
2023年5月26日発行の『厚生福祉』(時事通信社)に,著者のインタビュー記事「臨床家と被災者,二つの視点で」が掲載されました。『厚生福祉』(時事通信社)