運を研究するということ(1)

対談 荒川歩×村上幸史

運を心理学的に分析した『幸運と不運の心理学』をめぐって,法心理学やコミュニケーション研究を専門とする荒川歩教授と,運研究を専門とする村上幸史准教授とが,運と適応の問題,運と偶然性との関係,運を研究する難しさ,運を研究する醍醐味などを語ります。(編集部)

『幸運と不運の心理学』の刊行

荒川歩(以下,荒川)

これまで,論文は拝見したり,発表は伺ったりしてきたんですけれども,学会発表を全部はチェックできていなかったので,本を拝読して,こういうことまでされていたんだということに驚きました。

Author_arakawaayumu.png荒川歩(あらかわ・あゆむ):武蔵野美術大学造形構想学部教授。

村上幸史(以下,村上)

知っていただく機会ができてありがたいです。この本の内容ですが,最初は学術書として書いていたんですけれども,そうすると心理学の研究が,第2章のテイゲン(Teigen)の一連の研究や,第4章で紹介した「運の強さ」に関する認識の研究くらいしかありませんでした。そこで,膨らませて書こうと,事例を増やした方が面白いかなとか,運そのもののことを書いてみようということで哲学っぽいことへも内容がずいぶん広がりました。第1章は例の名古屋でのてんむす研のときに発表させていただいたものがもとになっています。

Author_murakamikoshipng.png村上幸史(むらかみ・こうし):2004年,大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程修了。博士(人間科学)。現在,関西国際大学現代社会学部准教授。『幸運と不運の心理学――運はどのように捉えられているのか?』(ちとせプレス,2020年)を刊行。

荒川

てんむす研は,松本光太郎先生(現:茨城大学)と私で開催していた研究会で,そこに村上先生にも来てもらって発表してもらいましたね。

村上

そこで,「運を研究する」という第1章のもととなる内容を紹介しました。僕自身が運研究にどういう価値があるかわかっていなかったのですが,疑似科学を研究されていた伊勢田哲司先生がいらっしゃっていて,伊勢田先生には面白がっていただきました。運を研究することは無理といった反応ではなく,科学とか疑似科学がベースの問題ではないのかなということを仰いました。

荒川

ほかに,この本でも紹介されている九鬼周造に関する読書会もしました。京都の鴨川沿いのところでやりましたかね。

村上

運の研究は,基本的には自分で面白がって勝手にやっているんですが,研究会や読書会などでメタ的に振り返る機会がなかったら,この本ができあがることはなかったと思っています。

運概念と適応の問題

荒川

拝読して,気になったことや思ったことを少し話しますね。切り口として運について全般的に書かれているのですが,運概念をもつことが進化的に有利に働くのかどうかそれともたんなる副産物なのかということがまず気になりました。もちろん,すべてのものに進化的な意味があるとは思わないのですが。村上先生の調査によると,世界中に運の概念自体はあるということですが,運概念があるということが,生き残りやすさにつながるということはあるのでしょうか。

村上

どうなんでしょう。多くの人が運を実用的に信じたり,たとえば運を使っていると感じていることに関心を向けているわけですが,実際のところ,運は説明できないものに対する呼び名にすぎないのではないかという気もします。ただし,どちらかというと,運というものが本当にあって,それが出来事の結果に影響を与えている,と思っている人が多いので,これだけ世界中に広がっているのと思います。ただし多くの人が運で出来事や結果を説明しようとは試みていますが,実際に説明できているかどうかというのは別問題な気がします。

荒川

対比的にいうと神概念というものもあります。海外でも,どうしてこんなことが起こったのかというと,「神様がこういうふうにしたからだ」と神概念が使われます。運概念と同じく,わからないものに対して説明しようとする概念だと思うのですが,神概念については進化的な説明による研究がいろいろと出てきています。神概念があるから結束が生まれたりとか,神概念がある方が生き残りやすかったりするということがあるかと思います。運という概念もそういうことがあるのかどうか。たんなる精神衛生上のこと,たとえば何もコントロールできないと思うよりも,それは運だと言った方が気持ちが楽になるということかもしれない。あるいは運がよい人がいることによって,ある種の資源の配分がうまくいくこともあるかもしれない。実際に運がいいかどうかは別として,運がいいと思っていることが行動に影響するということが,この本にも書かれています。

村上

神と運の概念の類似性はわかりませんが,最後の運概念と行動との結びつきはあるとは思います。たとえば自分は運がよいと思っている人が,宝くじを買ったりギャンブルをしたりすることが多いということですね。ほかに,ハイリスクハイリターンとローリスクローリターンのどちらを選択するかのようなギャンブルのような,リスクテイキング行動などとも結びついています。最近行った調査では,結果が出なかったのですが,以前調査したときは疫病にかかるかどうかの見積もりも「運の強さ」の認識と関係していました。具体的には運がいいと思っている人ほど,疫病にかかりにくいと思っているという結果が見られています。

長くなりますが,運に関する研究のカギとなるのは,このように「運の強さ」の認識のような個人がもつ運に関する考え方(しろうと信念)だと考えています。この運に関する考え方にはいくつかのパターンがあります。少し強引ですが,先の神概念と対比させると,信仰する神概念には宗派はいろいろあっても,神という概念は共通であり,ある意味で「一神教」のような印象を受けます(矛盾した言い方ですが)。多くは試練を与える存在ですが,時には救済してくれる存在です。これに対して,運を信仰になぞらえるなら複数の考え方がある,つまり多神教みたいなものかもしれません。ある人は説明をあきらめるために用いたり,ある人は善行で運を呼び込もうとしたりするなどです。また神は擬人化されますが,運をつかさどる「幸運の女神」は存在するとしても,運自体は擬人化されず,あくまで結果を左右する要因としての不確実な性質を指す呼び名だと思います。その意味で,運は便利な道具のようなものだと思っているのですが,原因にも結果にも,説明を放棄した場合にも同じ運という名前が用いられているのです。その都合のよさ自体が適応的というか,とりわけ日本でよく語られる理由かもしれません。

荒川

ギャンブルにしてもそうですが,運を信じることでネガティブなことになるという話はけっこう書かれていると思いますけれども,運を信じることでポジティブなことというのはないのでしょうか。それがないのに,運概念が残っているというのはなぜだろうかとは思います。

読みながら考えていたことは,たとえばうまくいっているときは「運がいい」と言ったりしますが,そのことを野生動物と森の中のこととして考えてみたときに,敵に捕まらなかったり,次から次へと食べたいものが手に入ったりするということが,運がいいということだと思うんですけれども,客観的に見ると環境が恵まれている状態ということなのかなと思いました。運がいいと思っているときというのは環境とのある種のマッチングがうまくいっているときなのかなと思いました。そういうときにはリスクをとってもいい。何をやってもうまくいかないときには,「運が悪い」と思うことで,いまはリスクがある行動はやめておこうと思って外に出ないようになると。

自分が心理学者としてではなく1人の野生人だったときのことを想像すると,「これは環境がよいからだ」というふうに考えるのかはよくわからないけれども,次から次へと獲物を捕まえられるし,外敵にも会わないみたいな感覚だと思うんですね。帰属という高度な話ではなく,「最近なんかいい感じだから遠くまで行ってみよう」みたいな感じではないでしょうか。それを運に含められるのであれば,運みたいな概念があることで,ちょっと中期的な環境と自分とのマッチング感覚があることで,ある種,適応的な機能がありうるのかなと。

村上

うまくいく場合は機能的なんですが,逆に運を信じることでランダム性を誤解していたとすると,偶然に獲物を獲得したことを自分の実力と過信したりとか,「ツイてるから」無謀な賭けに出て,生命を危険にさらすなど,ネガティブな状況を招くのかもしれません。帰属理論(図2-1)で考えると,いま言われた環境とは,課題や状況に帰属するということだと思うのですが,運はこれと別次元に置かれています。よく考えてみれば似たようなものかもしれませんが。片方は説明できていて,片方は説明できていないというぐらいの違いしかないように思いますけれども。

荒川

本当に環境がよいかは別ですし,もしかしたら次の日に襲われてしまうかもしれないわけですけれども。それは個人によっても違うかもしれない。ある人にとっては自分が出かけたときにライオンと出会わないけれども,別の人にとっては自分が出かけるといつもライオンに追いかけられるというようなことかもしれない。

村上

偏りはありますよね。運とかとは関係なく単純に偏っているわけですが。個人にとっては一度きりのことなので個人差に思えてしまう。そうするとその個人差の理由がわからないので,運ということを考えてしまうわけでしょうね。そのことが適応的かどうかと言われると難しいのですが。うまくいっているからなのか,そう考えているからなのかというのはちょっと違うと思うんですけれども。

荒川

そのあたりを理性的に考えると,環境に帰属するかよくわからないものに帰属するかになるわけですけれども,読んでいて思ったのは,運は個人にあるのではなく環境との間にあるのではないかと思いました。環境とうまく合っている瞬間を「運がいい」と呼ぶのではないかということです。本の中にも重要なポイントでうまくいくときに,「運がよい」と感じると書かれていました。

運のよさと価値の重要性

村上

運がいいと思った経験を尋ねると,タイミングを挙げる人が多いです。自分が求めているものと置かれている環境がマッチングしているということですかね。それが多い人を「運がいい」と言うのかもしれません。そのことに適応的であるとか理由があるのであれば,マッチングしやすい理由があるのかもしれません。

荒川

その言語化できていないものが運なのかもしれない。この本の中でも第2章でくわしく書かれていますが,まったくの蓋然性と運をどのように分けるかということがカギになるのかなと思います。

村上

個人が語る経験の内容としては,確率の問題だけではなくタイミングがよいということがあり,また自分にとって価値の重要性の高い経験というものがあります。自分が求めているときにうまくいくということです。これはおそらく宝くじに当たるような偶然性や確率ではなく,何か理由があるけれども偶然性に見えるような幸運というものがあるように思います。ただ,理由が説明できるわけではない。たとえばこの人と知り合いだったから,うまくいったというようなことです。幸運につながっていたという理由は考えてみればわかるけれども,そのときはわかっていないのかもしれません。

荒川

実際には必然的理由があるのにそれが起こったときには,運だと知覚されるわけですね。つまり運の強い人,運の悪い人というのは,理由が説明できないだけで,運が強い人はいろいろなリソースを潜在的にもっているかもしれないということですね。

村上

いま調べていることですが,運が強い人というのは知り合いが多いということがあります。知り合いが多いということはチャンスも多いということかもしれません。ワイズマン(Wiseman)という研究者が性格特性について研究していて,外向性や開放性が高い人は知り合いが多く,それが運が強い人に当てはまるということを書いています。当時はSNSもありませんでしたし,実際に人数が多いのかどうかも調べられてはいませんが,いまはSNSも加えて,そういうネットワークと「運の強さ」の認識の関連性を調べています。このことはあくまで1つの要因ですけれども,そういう意味でも運がよいと思う人は幸運な経験を得ている可能性があります。くじに当たるとかそういうことだけではなく。

荒川

社会的な機会の節目節目でということですね。

村上

求めているものがあったときに,たまたまうまくいった機会を得るということにつながっているのかなと思います。

荒川

おっしゃる通り,実在する関係ということが関連している可能性もありますけれども,そういうことでいうと一方では開放性とも少し関係があって,リフレーミングのスキルが高いということもあるのかなというふうに思っています。つまり期待する出来事があったとして,それとはちょっと違う出来事が起こったときに,運が悪いと思っている人は開放性が低いわけですから,これは自分が期待していたことではない,ダメだったと思ってしまう。運が強いと思っている人は開放性と多少相関関係があると考えると,ちょっと違うことでも,これはこれでいいかもしれないというふうに乗っかれることができるかもしれない。そういうことはありますかね。

村上

セレンディピティのようなものですね。この本には引用していませんでしたが,先に出たワイズマン(Wiseman)が実験していて,開放性が高いということはチャンスを見つけやすいという研究があります。道端で新聞を読ませて,この広告を見つけたら報告してくれという実験をしたら,運が強いと思っていた人が実際にその広告を見つけることが多かったという実験があったようです。僕もテレビの取材を受けたときにそれを実際にやってみようと思ってやってみたのですが,そんなにうまくいかなかったですね(笑)。開放性というものは見つける能力とか,見逃さない能力が高い,違う結果が来てもそのことを展開していくことができるということはあるのかもしれません。

荒川

なるほど,ありがとうございます。先ほどの話に戻るのですが,本を読んで不思議だったのは,なぜ価値の重要性が高い経験が運の強さの認知において重視されるのかということ。現象だけ書かれていて理由が書いてありませんでした。

村上

「運の強さ」の認識として重視されていることは2つありまして,1つは先ほどの宝くじのような客観的に確率の低いことを引き当てたりするかどうか,もう1つは確率とは関係なく,大事なときに成功するかどうかです。後者をとくに状況の重要性と呼んでいます。「運の強さ」の認識の基盤になっている過去の経験はこの両者で構成されていることを調査で明らかにしたのですが,なぜ重要視されるのかということは本には書いていなかったですね。

荒川

なぜだと思いますが。運ということを考えるうえで,このことは重要なのではないかと思うんですが。

村上

説明はしにくいんですが,成功・失敗だけではないのだと思うんですね。価値の重みづけの問題なんだと思います。

荒川

読んでいて思ったんですけれども,価値の重みづけがあるとき,たとえば「ここでこそ成功したい」という瞬間は,思いも強いですよね。このように,いままではどうでもいいけど今回だけは成功したいというときに,期待する結果が来ることで記憶に刻みつけられて運がよかったという感じが強まるのかなと思いました。そこそこのモチベーションのときと比べると,ここぞというときの方が,思いが強い。つまり,普段が1とか2なのに,このときは1万とか極端に大きな値なわけです。思いが強いときに成功したら,統計的にはものすごく相関係数は高くなりますよね。

村上

期待が高いときということですよね。それはそうですよね。たとえば試合の予選と本番とか,模試と大学入試とかの場合,本番や入試で受かったことで運の強さを語ります。いつもはダメだったけれども本番のときだけできたとか,練習した問題が入試で出たということを語ります。逆に運の悪い人は,そういうときに限って体調が悪かったとか,ということを語ります。意欲には個人差がありますけれども,多くの人にとって重要な状況があることは共通しているように思います。

荒川

重要な状況で思いが強いときに成功が来ると合致感が強くなる。逆にうまくいかなければ,この本に書かれていた普通よりも下にいくという図(図2-2)になるわけですね。

村上

予選でずっと連勝をしていても,肝心なところで負けた場合,数でいえば勝ちが多いわけですけれども最終的には思い通りの結果にはなっていないということですね。幸運というのを出来事単位で考えることもあるのですが,幅のある期間で幸運と呼んでいることもあります。運の認識に関するさまざまな研究を行っているテイゲンという心理学者がいるのですが,彼は幸運か不運かは最終的な帰結,つまり結果であり,予選で勝っていても最終的に負ければそれは不運だというふうに言っています(第2章,上の図がそれのまとめです)。それに従えば,最後の帰結だけではなくてもう少し広いスパンで見ているということがあるかもしれません。重要なときというのは幅のある期間の一区切りということなのではないかと思います。1つひとつ幸運・不運があるということと,少し幅のある期間で考える幸運・不運があるのではないかという風に捉えられていることがあると思います。

第2回に続く

運とはいったい何なのか。運の強さやツキはどのように語られ,認識されているのか。運を「譲渡する」現象はどのように捉えられているのか。日常生活の中から,さまざまな記事やノンフィクションにおける運の描かれ方を分析し,その実態に迫る。