心理学から見る文化/文化から見る心理学(3)
鼎談 サトウタツヤ×尾見康博×木戸彩恵
Posted by Chitose Press | On 2019年08月15日 | In サイナビ!, 連載文化を記号として捉え,文化との関わりの中で創出される人の心理を探究する文化心理学。『文化心理学』を編集したサトウタツヤ・立命館大学教授,木戸彩恵・関西大学准教授,『日本の部活』において文化心理学的アプローチから部活を分析した尾見康博・山梨大学教授が,文化心理学の醍醐味と今後の展開を語ります。第3回は記号論的罠と今後の展開について。
部活文化の根深さ
木戸:
尾見先生の本についても授業で話しました。体罰についても学生に聞いてみましたが,聞き方が悪かったのか,あまりちゃんと出てきませんでした。
木戸彩恵(きど・あやえ):関西大学文学部准教授。主要著作:『化粧を語る・化粧で語る―社会・文化的文脈と個人の関係性』(ナカニシヤ出版,2015年),『社会と向き合う心理学』(新曜社,2012年,共編)。
尾見:
少ない方が普通だと思いますよ。
尾見康博(おみ・やすひろ):山梨大学大学院総合研究部教授。主著に,『日本の部活(BUKATSU)――文化と心理・行動を読み解く』(ちとせプレス,2019年),The potential of the globalization of education in Japan: The Japanese style of school sports activities (Bukatsu).(Educational contexts and borders through a cultural lens: Looking inside, viewing outside. Springer, pp. 255-266, 2015年),Lives and relationships: Culture in transitions between social roles. Advances in cultural psychology.(Information Age Publishing, 2013年,共編),『好意・善意のディスコミュニケーション―文脈依存的ソーシャル・サポート論の展開』(アゴラブックス,2010年)など。→Twitter(@omiyas)→webサイト
木戸:
尾見先生の調査では体罰を受けた人が多かったですよね。(大阪という)土地柄ですか?
尾見:
それもあるかもしれないけれど,ここ数年ですごく減っているのは間違いない。大学教員に対して答えるわけなので,体罰を受けていても「受けていない」と答えやすい質問です。僕は教職の授業で学生に調査したのですが,「ありました」と堂々と言ってきて,なおかつ「個人的には体罰と思っていません」と平気で言うことに衝撃を受けたわけよ。本に書いたけれど。
木戸:
書いてありましたね。
尾見:
今年の夏休みには,教師向けの免許更新講習でも部活の話をすると思います。
――サトウ先生は部活をバリバリやっていたのですよね。
サトウ:
やっていたよ。小中高と運動部。部活がなければ暇だったと思うしね……。中学の野球部では,1年生のときは先輩から焼きを入れられる(むちゃな訓練をさせられる)ことがあって怖かったけど,上級生になったら顧問の先生が「1年生がこの頃ダレてるから,練習後に焼きを入れろ」とか言っているわけ。困ったものだよね……。僕はそれになじんでしまっているけれど。野球部がなければ不良がみんな町に出ていくわけだから大変ですよ(笑),という印象はもっています。シンナーを吸っているような人も部活の監督の言うことは聞いて,夏休みは毎日朝9時から夕方5時まで練習していたわけだから。雨の日だって素振りしているし。
サトウタツヤ(佐藤・達哉):立命館大学総合心理学部教授。主要著作:Making of the future: The Trajectory Equifinality Approach in cultural psychology(Information Age Publishing,2016年,共編),『心理学の名著30』(筑摩書房,2015年)。
尾見:
野球部は朝練もやって夜も遅くまでやって,雨でもやって,土日もやる。
サトウ:
野球はじつは実動時間は少なくて,休んでいる時間が多いからね。基本的に動いているのは打ったり投げたりするときだけだから。
尾見:
野球が部活を先導しているところがありますよね。日本は他のスポーツも野球をモデルとしてしまっているわけです。野球経験のある人がバスケ部の顧問になると,「僕はバスケのことはわからないのですが」と,野球のやり方で考えてしまいます。
サトウ:
僕が高校のときにやっていたフェンシングなんて1日中はやっていられないからね。それでも夏合宿では午前中3時間練習して,3時間休んで,午後3時間練習とか。そして練習する体育館に時計がなくて,時間経過がわからないところで練習していた。窓から陽が入っていて「陽の光がここまで来たら休み時間だ」とか考えて練習していました。時計がないとか,おかしいよね。
木戸:
それはおかしいですね。何かの修行みたいですね。
サトウ:
それを乗り越えちゃったような人には,この本はなかなか受け入れられないかもね。さらに言えば,レギュラーじゃなくてもつまり補欠でも耐えるみたいな文化があるよね。補欠とか陽があたらなかったけど頑張った経験をしてきた人には,この本の内容は受け入れられないよね。実際,尾見(敬称略)の本の中にも,アメリカではすべての人が何らかの形で試合に出て活躍できる文化があると書いてあったし,そっちの方がいいのだろうけど。
木戸:
でも,この本を読んで救われる人もいるのではないでしょうか。
サトウ:
それもいるだろうけれどね。
尾見:
本当に人によるよね。あのときを乗り越えて今の自分があると思っている人からすると,「揺さぶりやがって」と思うだろうし。なんとなく気になっていて,完全に消化しきれていない人にとってはいいのかもしれない。
木戸:
私の授業の後に質問に来た人は,部活の部長だと言っていたから,何かモヤモヤしているところがあったのかもしれない。
尾見:
この手の話をすると,反発もすごくありますよ。露骨には言ってこないけれど。
木戸:
それは教員からですか? それとも学生からですか?
尾見:
教員でもあります。教員免許更新のときにも部活の話をしたのですがまったく受け入れられない教師がいました。反射的に嫌だと思う人はいますよね。
サトウ:
本当に認知的不協和だからね。
――「部活」を検索ワードにして,Twitterで検索することがあるのですが,「日本の部活がひどいよね」と書いている人はけっこういました。
サトウ:
デフォルトは肯定だからね。デフォルトのことをわざわざ書かないのかもしれない。
尾見:
Twitterで部活を肯定的に書く人はなかなかいないだろうね。
木戸:
むしろ肯定的に書いてある本を読みたいのですかね。
サトウ:
読んで気持ちよくなるような本ね。
木戸:
否定的な人はなかなか読まない。
サトウ:
読んだ後に,なかなか人に勧められないよね。教員免許更新の授業でも,その教員は聞いていてよほど辛かったんじゃないの(笑)。まあ強制力があることが,授業のいいところだけれどね。
尾見:
部活は課外活動だから,じつは教員免許とは関係ない。
サトウ:
だから教職でも教えられてもいないわけだよね。
木戸:
でも部活を一所懸命にやっている人が,評価がよかったりするわけですよね。
サトウ:
部活を指導するために教師をやっているみたいな人もいるからな。
記号論的罠
サトウ:
この『文化心理学』で,理論,方法,方法論という部構成にしてしまうのが,私流なのでしょうね。方法論を入れないという手もあったのかもしれないけれど,方法論がないとしまらないし。
尾見:
これがあるからタツヤさんなのではないかと思いますよ。ヴィゴーツキーを研究している人たちは,あまり実証的なことに重きをおかないですよね。実証に重きをおきすぎると,理論が破綻するので,理論の美しさを保持できなくなる。この本の各論部分をそういう人たちが読むと,「これじゃだめだ」と思うのではないかとも思いました。
サトウ:
読まないから大丈夫ですよ(笑)。理論部分を読んでくれるかもしれないけれど,各論は読まないだろう。
尾見:
この本は各論がいいのに。あと,方法論があることは後続研究を生むことにもつながる。
サトウ:
サンキュー! 次の話題に移るけど,研究の展開という点では,記号論的罠の研究はいろいろとできると思います。
木戸:
そうですね。
サトウ:
記号論的罠という考え方に救われたという人はけっこういます。記号論的罠とはこういうことです。自分が入りたい大学が別にあったのに,そこには行けなくて今の大学に来たという学生がいました。大学に入ってから時間も経って,いろいろなことをやっても結局のところ高校生のときの価値観に囚われている。その学生とは京都の経済同友会の活動で知り合ったのですが,そういうところに参加するようなとても活発な学生だったのに,就職もうまくいかなかったと話していて,「やっぱり別の大学に行っていればよかったな……」と思っている。クロノス時間としても3年間ぐらい経っているのに,自分や自分の経験を,受験をしたときの価値観で見ていて,今の大学で経験することはすべてくだらないと思ってしまう。そうすると,就職活動もなかなかうまくいかない。その学生は卒業時には学長の表彰も受けるくらい周りの評価はあったのに,自分では「高校生的価値観」に浸りきってしまっている。そういうものが記号論的罠です。実際に起きていることを価値づけるような記号体系を作らなければ,そういう罠に陥ってしまう。そういう研究はいろいろとできるような気がします。
木戸:
たとえば,ダメ男の研究とか。今,恋愛をできないという学生がいて,「じゃあオートエスノグラフィーをやってみよう」という話をしています。「それで研究になるのですか?」と本人は不安そうなのですが,きっと良い研究になると思います。
サトウ:
記号論的罠に陥っていると,自分ではわからない。罠だとわかっていればいいのですが,わからないからどんどんと落ちていってしまう。身動きがとれなくなるものとしては,就職活動もそうです。日本のキャリア教育では,キャリアについてきちんと教えてないので,3年生になると有名企業に行きたいと思ってしまう。そういうことをきっちり研究していくと,生産性の高いものになるように思います。
――そういう論文は,どういう雑誌に載るのですが。
サトウ:
社会心理学の雑誌でも何でも載ると思うよ。似たような経験は多くの人がしているだろうから,質問紙を配ってもいいわけです。記号論的罠という現象があり,そこから抜け出せない人がいるということは,進路に関しては必ずあるだろうと思います。研究に関して,「ものづくり ひとづくり まちづくり」と言っていて,まちづくりのような研究を文化心理学でやるとすると,心理学の雑誌には載らないだろうから,その場合は理論なりで行う必要があるとは思います。あと記号という意味では,実存を損なう記号をうまく排除するようにできれば,現実のからだ,現実の場所で行っていることをきちんと経験に内化できる。三層モデル(図参照)でいうと,一層の行為レベルにとどまる体験ではなくて,経験のレベルになる。偏差値みたいな高校生のときの記号でとらえていると,あらゆることが体験でしかなくて,「こんな大学に来てこんなことやらされている」「こんな大学だからこんなことが言われるけれど,本当はそうではない」と思ってしまう。
尾見:
体験と経験の話があったのはそういうことですね。なるほど。
サトウ:
文脈的な枠の同定ということをヴァルシナーはずっと書いていたのですが,私たちがそれを読み取れていなかった。文脈的な枠の同定というのは,たとえば偏差値がたいしたことのない大学に来てしまったので,全部をそういったものの見方で処理してしまうということです。そうなると自分が実際でやっていることを尊重することができない。つまり実存性を尊重できない。
尾見:
1人の人間から見ると,記号はいくらでもありえて,変遷していて,立ち現れたり消えたりするわけですが,今の例でいうと,「○○大学の私」というものが,抑制的記号になっていると。
サトウ:
「高校生のときの私が見ていたレベルの低い大学」にいる私だね。
尾見:
それは「○○大学の私」「ダメな私」と意味づけているわけですよね。記号というのは複雑で,「○○大学の私」というときに,その大学は高校のときに感じていたこととか,まわりの人が見ていたとかがあって,それが変容できなかったわけですよね。その人にはそういう意味の記号になっていると。
サトウ:
ヤーン(ヴァルシナー)はそのことをずっと書いています。ちょっと話が変わるけれど,今,立命館大学でビジョンを作る仕事に携わっています。そのとき,ミッション,ビジョン,アクションの三層で考えようと言っている。大学のミッションとしては,たとえば建学の精神などがあってそれは変わらない。一方でアクションは日々やらなければいけないこと。そして,ビジョンはその中間にあって調整が自由にきくものであってデザインすることができるものだと位置づけるのです。そこで今,R2030チャレンジ・デザインというものを作っています。そのときに,「デザイン」というものが何なのかということをわかってほしいのです。
尾見:
デザインについて,本に「サイン(記号)を配置する」ことだと書いてありましたね。
サトウ:
そうそう。そういうことをわかってほしいわけよ。ビジョンをサイン(記号)の配置とすることによって,行為を引き起こすことになる。そういうデザインが必要で,これまでに日々やっていることは,それまでの記号によってやっていることだと。そういう観点からすると,組織論やまちづくりにも研究が展開できるのではないかと思います。ただ企画部門と現場とでそりが合わないことも「あるある現象」で,企画部門で30年を見据えて何かを提案したとしても,現場ではなかなかうまくいかない。ヤーン(ヴァルシナー)はそういうことを昔からいろいろと書いています。こちらはそれを理解できていなかった。
木戸:
昔は「文化が人に属する」と言われても,全然わかりませんでした。今は自分で図を書いて説明もできますけれど。
雑誌と学会活動
――春に国際学会を立命館で開催したのですよね。
サトウ:
TEA(複線径路等至性アプローチ)の国際集会ね。そろそろ英文雑誌を作らないといけないなと考えています。ただ雑誌の作り方がよくわからない(笑)。TEMは図を描くので見ればわかる。雑誌を作れば,TEMのことをいちいち説明しなくてもいいし,短く書ける。スキナーと同じだね。スキナーのオペラント条件づけは,初期の頃は「実験でも,科学でもない」と散々いろいろなことを言われたので,自分たちで雑誌を作ってしまった。そうなると,とやかく言われないので,論文がたくさん発表され,いろいろな強化スケジュールで効果が違うということがわかったりした。雑誌で発表することで研究も深まり,応用可能性も出てきた。そういうことがしたいと思います。尾見(敬称略),よろしく(笑)。
尾見:
いやいや,軽く言うけれど。雑誌だと,英文校閲とかもあるよね。
サトウ:
そういうものを含めて作らなければいけないよね。
尾見:
お金もかかる。
サトウ:
お金は何とかなるよ。
尾見:
会費とか投稿料をとるかどうかね。
サトウ:
やりたい人がお金をかけてやればいいだけの話であって,そういうシステムを作ってあげればいいということだね。投稿を受け付けて,判断して,載せるかどうかを決めて,雑誌にする。紙媒体で行う場合にも,「雑誌を作るので論文を送ってください」と案内を出せば論文を募ることはできるよね。それを2人に振り分けて査読してもらって,それを投稿者に返すこともできる。いい原稿が集まったとして,その後どうするかだ。
尾見:
印刷する体裁を整えるために,執筆の手引きが必要ですよね。それに即して合っていないところや文献の体裁をチェックするとか。誌面を作るときには,図表をどうするかとかを考えなければいけない。
サトウ:
紙媒体ではなくて,PDFにすれば柔軟にできるし,色も使える。TEA(複線径路等至性アプローチ)は色を使った方が表現力が増す。長さはそんなに厳密にしなくてもいいけれど,長いものにはあまりしたくない。TEM(複線径路等至性モデリング)であれば,こういう問題意識で,こういうTEM図が書けて,介入へのインプリケーションが出てくればいい。いろいろな領域のいろいろなものが,それで参照できるようになる。テーマ自体が文化的だし。でもやはり投稿マニュアルを作らなければいけないか。
木戸:
システムを整えるまでが一仕事ですね。でも,私も英語論文を書きたいけど,長い論文かぁ……と考えると敷居が高くて結局挑戦できていないので,そういう雑誌があれば嬉しいです。若手の研究者には研究の国際発信の良いきっかけになりますよね。
(了)
人に寄り添う文化と人の関係性を描く。文化を記号として捉え,文化との関わりの中で創出される人の心理を探究する文化心理学。その理論や歴史を丁寧に解説し,ポップサイコロジー,パーソナリティ,学校・教育,自己,法,移行に関する12のトピックについて,文化心理学の見方・考え方を各論として紹介。方法論もカバーした決定版。