心理学が挑む偏見・差別問題(2)
社会問題への実証的アプローチ
Posted by Chitose Press | On 2018年09月20日 | In サイナビ!, 連載大江:
この話題は障害者の問題から入ったのでそちらにまたシフトすると,多くの人は人権を主張することである程度方向づけることができると思うのですが,一部の人は,2016年に起きた障害者殺傷事件の加害者のように,障害者に対する「非人間化」が起こってしまっているように感じます。「人間ではない」ので,「殺してしまってもよい」という考え方をもつ人がいて,その考えを「みんなもわかってくれるはず」という思い込みまであるわけです。民主主義の国家において法によって規制することは,「みんながそれを悪いことだと言っている」という強い理由になると思います。人権を主張しても効き目が弱い人に対して,法で規制することはかなりの効果があると思います。
大江朋子(おおえ・ともこ):帝京大学文学部准教授。主著に,『社会心理学――過去から未来へ』(北大路書房,2015年,分担執筆),『社会心理学』(放送大学教育振興会,2014年,分担執筆),『個人のなかの社会』(展望 現代の社会心理学1,誠信書房,2010年,分担執筆)など。
唐沢:
もちろん,法的な解決は非常に重要な突破口ですし,期待もしています。
北村:
法が言っているからしぶしぶ従うけれども,「多数はそういう考えなんだね」と内心は承服できない人をどうするかということは気になるところです。相模原の事件の場合でもそうですが,優生思想をどう考え,評価するかについて,日本の社会できちんと問われていなくて,公に議論されていないように思います。ある程度の年齢の学生や大人の中で,歴史的なことも知ったうえで人権を尊重するという合意が成り立つかでしょうね。
高:
「多くの努力をして貢献したから,多くを得られる」という衡平基準の公正ばかりが強調されているきらいがあって,それだけだと障害者は世の中に貢献しにくいからいなくなってもかまわないという話になるし,生活保護も否定されてしまいがちです。しかし,公正には衡平基準だけではなく,みんなが平等にという平等基準もありますし,必要な人に分配するという必要基準もあります。それらがないので,「役に立たないからいらない」といった話になってしまいます。人権に関わる問題であれば,衡平基準は本来不適切なのですが。
唐沢:
そのとおりですね。しかも衡平(イクイティ)に関しても,世の中の役に立つかどうかという視点だけから見るので,働けないとか,生産できないという結果しか見ていないからですね。衡平基準全体の全体的な観点からの適用ではなく,一部の結果しか見ていない。人権の思想のもとでは,衡平基準は社会の一員としてのさまざまな面での存在価値や貢献に当てはめられるはずですよね。「役に立たないからいなくてもいい」というのは,衡平基準の中の1つの物差ししか使っていないわけです。日本のように,急速に産業化し,経済的に成長した社会の限界かもしれません。ある種の社会の弱さがあそこに出ているような気がします。ただ,残念なことに,私の中にも社会や人間に対するそういう見方はあるのだと思います。子どもの頃から,たった1つの物差しで人を測るということに慣れきっていますから。
北村:
私が学生の頃によく議論していましたが,経済原理や効用ではなく,あることや存在することだけでの価値は,その人を特別に承認するということではなく,自分もいつ事故に遭って四肢麻痺になるかもしれないし,どういう状態になるかもわからない。そういう可能性やその不安を考えたときに,税金から支出して他人に便宜を与えるということではなく,存在することを認める社会は,自分自身の生きやすさに,そして人生や未来の承認につながるという感覚で受け取らないといけない。他人事のように,「私は恩恵を与える側で,もう一方に恩恵を受け取るだけの人がいる」という狭い見方だと,衡平のバランスが崩れているように見えるのかもしれない。存在するだけで認められる社会は,自分自身が安心して生きていける社会だというポジティブな感覚が重要と思います。
高:
いまは,社会における人間に対しても,会社の従業員をリストラするような感覚がありますね。全体的に貧しくなっているから,「お金のかかる,生産性の低い人はいなくなってもらおう」というような。
北村:
社会からリストラするわけですね。
唐沢:
こんな豊かな国でね。
大江:
本当ですよね。こんなに豊かなのに。競争があるからですかね。