障害理解のリフレクション
行為と言葉が描く〈他者〉と共にある世界
発行日: 2023年3月10日
体裁: 四六判並製384頁
ISBN: 978-4-908736-30-8
定価: 2800円+税
内容紹介
障害はどのように立ち現れるのか?
行為と言葉を手がかりに,日常実践における障害の社会的生成メカニズムの実態に迫る。障害という現象をめぐる自分や社会の理解を振り返り,書き換え続けていくために。
目次
序章 障害理解のリフレクションはどのような実践か ●栗田季佳
第Ⅰ部 行為が描く〈他者〉と共にある世界
第1章 「障害」をいったん横におくということ――保育の場でのある子どもの対人葛藤から ●水津幸恵
第2章 インクルージョン実践への状況論的アプローチ――「コミュニティの相互的構成」と二つの生活形式 ●佐藤貴宣
第3章 社会的に不利な状況にある子どもたちが「発達障害」とされていく仕組み――「障害」はいかに使われているのか ●原田琢也
第4章 障害疑似体験を「身体」から再考する ●村田観弥
第5章 介助を教わり「失敗」する――身体障害者の介助現場における介助する/される関係を通した「障害者を理解すること」 ●前田拓也
第6章 「同じ世界を知る」ことはいかにして可能か――視覚障害者の歩行訓練から ●坂井田瑠衣
第Ⅱ部 言葉が描く〈他者〉と共にある世界
第7章 障害はなぜ「性格」と呼ばれないか――障害個性論と性格の概念 ●渡邊芳之
第8章 精神医学の概念を用いて自己を理解すること――文化的環境、行為の遡及的再記述、道徳的評価 ●浦野茂
第9章 「普通」を生き延びる――知的障害における自立/依存をめぐって ●渋谷亮
コラム 障害とジェンダー――交差性の視点から ●秋風千惠/知的障害者からの情報発信――新たな理解の契機として ●打浪文子
はじめに
共生社会やソーシャル・インクルージョン,ダイバーシティなどさまざまな文脈で,障害について知り,理解する機会が求められている。たとえば,法務省人権擁護局はおもな人権課題として障害のある人を挙げ,「障害のある人を含む全ての人々にとって住みよい平等な社会づくりを進めていくためには,(中略)社会の全ての人々が障害のある人について十分に理解し,必要な配慮をしていくことが求められています」と障害理解の必要性を述べる。このように,障害の理解は基本的に望ましいこととして捉えられ,ホームページに啓発ページが設けられたり,テレビで取り上げられたり,学校で障害を理解する教育(いわゆる障害理解教育)が行われたり,研修会で機会が設けられたりする。
かつては話題に挙がることもなく,当然のように障害のある者は教育の対象外とされ,本人の意思とは無関係に健常者に近づくための治療や訓練が行われ,就労や暮らしの場から排除されてきたことを考えれば,隔世の感がある。しかし,この求められ,望まれる障害理解を額面通りに受け取り,より適切で効果的な障害理解の方法を解説するのは本書の目的ではない。
本書のタイトルで「リフレクション」と銘打っているように,本書の執筆者らは従来の障害理解を振り返り,その脱却を試みる。今日の障害理解の説明の中心にあるのは,いまだ,身体の特徴であるとか,思考のスタイルであるとかといった,個人に見出される安定的な特性である。そして説明の後には,その特性に応じた支援のあり方や関わり方のポイントなどが挙げられ,環境や関係によって生きづらさや困難は軽減されるといった話が続きがちだ。
そういった説明に接して「興味をもった」とか「関わってみたい」「あの人の振る舞いの理由がわかった。これからは関わり方を変えてみよう」とどれほどの人が思うだろうか。かえってその逆で,障害とはまさにわざわざ説明の機会が設けられるような特別なものに感じられ,道徳的メッセージを受け取って,口に出すことや関わることに抵抗感を抱くこともあるだろう。知れば知るほど,「めんどうくさそう」に感じる。この世界に飛び込むには覚悟が必要で,「何かしてあげたい」と使命感をもったとしても,それは当事者にとってありがた迷惑だったり,意外に大変で疲れてしまい,逃げたくなったりするかもしれない。
本書は,障害のことを自分から切り離して一方的に見つめ,教科書的に述べたり,あるべき接し方を説いたりしない。それではまた読者の心を緊張させ,硬い姿勢で向き合わせるか,そっぽを向かせてしまうことになりかねない。障害といえば,善意や慈悲,人権問題や差別といったお堅いイメージがまとわりついているが,「違う」ことは純粋に興味をひく現象であるし,障害を見つめると私たちの暮らす社会がどのような社会なのかが見えてくる。
本書には多様なバックグラウンドの執筆者が集っている。執筆者は研究者の一面をもつが,障害のある当事者,障害のある子をもつ保護者,障害のある者と共にすごす者,障害分野でフィールドワークや市民活動を行っている者,教員経験者,そして普段,障害の問題を正面から扱っていない者もいる。障害はそれについて知ろうと知るまいと,「みんな」に関わるテーマであるからだ。関心をもつ者のみの議論は世界を閉ざし,コアさがより結束を強くして,周囲との隔たりを深くし,「あちら側」の問題とする。編者は障害者問題をそうしたくない。障害を専門としようとしまいと,本書の執筆者は,障害を個人的問題として捉え,改善と適応を目指す障害観への批判のまなざしを共有したうえで,それぞれが身を置く領域で,新しい障害理解へとつながる視点を提供してくれる。
ここで具体的に,本書の構成と各章のコマーシャルを少々述べておく。本書の視座とリフレクションの実際について論ずる序章を皮切りに,二部構成となっている。第Ⅰ部は,行為が描く〈他者〉と共にある世界である。保育から小学校,中学校そして高等教育の現場,成人障害者の生活において,障害がどのように位置づき,人々に受け止められ,理解されているのかを見ていく。エピソードや現状を示すデータは,きっと読者にとっても身近に感じられるだろう。
第1章は保育学をバックグラウンドとする水津幸恵さんによる,一人の子どもをめぐるまなざしの探求である。今日,チェックリストや個別のカルテなど,個人化したまなざしを子どもに向け,「普通」「定型的」な発達と見比べる動きは保育の現場にもひたひたと押し寄せている。しかし,そのような存在として子どもを見るとき,子どもが示す思わぬ輝きに出会う機会を私たちは失ってしまうかもしれない。ここに表れてくるいくつものエピソードは,「子ども」や「障害」というものの不確定性を示している。
第2章は,佐藤貴宣さんによる「インクルージョン実践への状況論的アプローチ」である。教育におけるインクルージョンとは,障害のある子どもを他の子どもが学ぶ普通学級から排除しないことである。しかし,そのようなことができる現状ではない,制度が変わらないと,理解が深まってからでないと無理だ,という声が数多くある。インクルージョンは頭の中に描くものでも制度の仕組みにあるのでもなく,実践することによって達成されるというのが本章タイトルの「状況論」の立場である。障害のある子どもが,ただ「目が見えない」だけの「普通」の子どもとして学級に溶け込んでいく過程をあなたは見るだろう。
前章とは対照的に,通常学級にいられない子どもたちの背景に迫るのが第3章,原田琢也さんの「社会的に不利な状況にある子どもたちが『発達障害』とされていく仕組み」である。今日,少子化にあって特別支援学級・学校の在籍者は増加の一途をたどっている。これを「必要な支援を受けられるようになった」歓迎すべきものと捉える風潮もあるが,はたしてそうであろうか? 本章から,障害が文脈から独立した客観的な基準に基づいて認識されるものではなく,人々の間で曖昧に理解され,利用され,制度的につくられていることがありありと伝わってくる。
第4章ではしばしば教育現場で行われる障害の疑似体験について,村田観弥さんが実際に行った講義を題材に,大学生の振り返りが紹介されている。障害理解体験はしばしば「大変な中で生活している」「遭遇したら助けたい」といった他人事で建前的な,薄い理解にとどまることが課題に上がる。しかし,本章で取り上げられる学生たちは個別の障害について「わかった」「得た」ことよりも,「わからない」こと,「知ることのできない」ことに想像をめぐらせ,かつそれに対して気後れしたり開き直ったりということもない。興味深いのは,ここで行われている疑似体験自体は,多くの現場で実践されているものと変わらないアイマスク体験と車いす体験なのである。何が異なるのだろうか? 本章を読んでみてほしい。
ここまでの章は保育・教育という公的な場における大人と子ども(若者)のやりとりに着目してきたが,第5章は,生活という私的空間における介助をめぐる人間関係を垣間見させてくれる。介助経験をもつ前田拓也さんが描く現場はリアリティがある。親元から離れ,他者の介助を受けながら自分の暮らしを実現する障害者の自立生活。障害者が「できない」ことを「できる」介助者が補い,その人の生活を支えるのが介助者の役目である。しかし,この「できる―できない」こそが,障害者の主体性を否定し,さまざまな意思決定の場面から追い出してきたいわくのある基準である。介助者はこのジレンマとどう対峙するのか,させられるのか,本章にはユーモアを感じる向き合うヒントがある。
坂井田瑠衣さんの第6章は,視覚障害者の歩行訓練をフィールドとして,異なる身体感覚を頼りにする人同士が同じ場をどう共有しているかが論じられている。歩行訓練といえば,支援する人―される人という二分的役割の典型的な場面であろう。しかし,そのような見方は,ごく一側面であるにすぎない。むしろ,もっと注目すべき不思議な現象がここに見られるのだ。私たちは,健常者といわれる者同士であっても,異なる身体をもった人間同士である。違いの程度問題であって,私たちはこの身体という物理的隔たりを越えて,どうやって相手と物事を共有し,同じ言葉を用いてインタラクションできているのだろうか?
第6章までの実践編に続く第Ⅱ部は言葉が描く〈他者〉と共にある世界として,思想的な議論に移る。私たちは日々の実践や行いをある枠組みで見ている。しかしそのものの見方は固定的ではなく,別の様式でも可能である。たとえば,ある人はそれを「問題行動」だといい,ある人はそれを「切実な訴え」だという。以降では,普段じっくりと問い突き詰めないようなテーマが論じられることで,別の視点の扉が開かれる。
第7章の渡邊芳之さんは性格心理学の研究者である。心理学は障害の説明とその行動メカニズムの解明に取り組んできた,障害理解に多大な影響力をもつ学問領域である。心理学はこのように,障害を一般の心理学概念から引き離したテーマとして扱い,特殊なもの,異質なものとして位置づけてきた。それでは,たとえば性格のような私たちが日常用いる心理学概念に障害は包摂(インクルージョン)されうるのだろうか? 「障害は個性だ」というような主張を考えれば,包摂の可能性はあるようにも思われる。障害と性格の対比によって,私たちがそれぞれの言葉に何を見出しているのかが見えてくる。
前章に見るように,障害の概念はけっして固定的ではなく,変化しうるものである。新しい障害の概念が提示されたり,中身が変わったり,消えたりもする。第8章の浦野茂さんは,このような特徴が顕著である精神障害の概念の中で,多重人格を取り上げ,私たちが概念を用いて何を理解しようとしているのかについて丁寧に議論を重ねる。そう,私たちは何かを理解するために,概念を用いるのである。むしろ,どのように用いようとするのかという,意図や戦略が概念を動かす場合もある。とかく,新しい概念に触れると「私も当てはまるかもしれない」と発見する人がおり,それを聞く者は真実か否かに目が行きやすい。しかし,それが新しい概念を用いた理解の本質ではない。本章で,読者は「私」を探す物語に触れることになるだろう。
第9章では,本書のテーマ「障害理解のリフレクション」として,渋谷亮さんが「障害」ではなく「普通」を問う。「日本」以外にも国があることを知ることによって「日本」と名づける必要性が生まれるように,どのような概念も他と関わることなく独立して成立しない。概念は他から派生したり相対化されたりして浮かび上がる。私たちは障害にばかり注目し,説明したがり,定義もしているが,その周辺概念との関係を見なければ障害を問い直すことは不可能なのである。しかし,普通や健常はうまく定義できない,にもかかわらず,私たちをとらえる概念である。本章は,障害の理解の仕方にとどまらず,普通や健常という規範に苦しむ私たちを少し自由にしてくれる。
また,本書にはコラムが二本挿入されている。当事者研究者の秋風千恵さんは自身の差別体験についての語りをもとに,障害者であり女性であるという二重の差別のもつ特徴を説く。そして,障害の問い直しは当事者の声から展開されてきたが,遠ざけられがちな知的障害の人の声を聞くにはどのような方法があるのかを,打波文子さんが紹介する。
逆説的ではあるが,「新しい障害観」の契機はどこにでもあり,誰の周りにも広がっている日常にある。私たちが身を置いているこの社会,場所,接する人や物事を理解する枠組みを,別の仕方で見返すことが,これまでの障害観を抜け出る糸口になる。本書の各章は独立しているため,いずれから読んでいただいてもかまわないが,第Ⅰ部ではみなさんも各章のエピソードの一員となって参加していただき,第Ⅱ部で章とともに思索にふけっていただきたい。本書を読み終えたとき,障害についての理解が深まるよりも,それを通してあなたの世界の見方がリフレクションされれば幸いである。
二〇二二年一〇月
編者を代表して
栗田季佳
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メディア紹介等
日本教育学会『教育学研究』第90号第3号(2023年)の「図書紹介」にて紹介されました。評者は湯浅恭正先生(広島都市学園大学)です。日本教育学会のサイト