内容紹介
なぜ隷従するのか?
迫害され不利益を被る人々が,不公正や搾取を引き起こす現存の社会システムを擁護し正当化するのはなぜか。自分自身や犠牲者を非難し,社会変革への抵抗を示すのはなぜか。社会科学に多大な影響を与えてきたシステム正当化理論について,理論的考究から実証研究,今後の展望までを詳述する待望の一冊。
目次
第1章 新たな「自発的隷従論」
第2章 社会的正義とは何か
第3章 システム正当化理論の知的源流,主要仮定,実用的関連性
第4章 ステレオタイプ化と虚偽意識の生成
第5章 システム正当化の心理――現状の合理化,劣位の内在化,自己・集団・システム正当化動機間で生じうる葛藤に関する18の仮説
第6章 勢力をもたない感覚は権力と階層の正当化を促進するのか
第7章 「貧しいけれど幸せ」――相補的ステレオタイプのシステムを正当化する可能性
第8章 少女と女性の従属と自己従属
第9章 公正「神」信念(そして,公正社会信念)―システム正当化の一形態としての宗教
第10章 気候変動に関する変化への抵抗と動機づけられた懐疑主義を克服するために
第11章 なぜ男性や女性は反乱したりしなかったりするのか
第12章 システム正当化理論の誕生から25年を経て――批判,反論,今後の展望
付録
日本語版への序文
私は2010年末に一度だけ日本を訪れたことがあります。それはとてもすばらしい旅でした。社会階層と不平等教育研究センターにおける講演を東京で,さらに,京都では,こころの未来研究センターで講演を行いました。講演を開催したホストたちは,とても親切で,非常に寛大でした。どちらの会場でも,出席していた教員や学生たちは,非常に鋭く,理解も速く,熱心で,生き生きとしていて,温かく,親しみやすく,魅力的であったことを覚えています。そして社会心理学,人格心理学,政治心理学の現在進められている研究活動を知るとともに,日本の文化や歴史について多くを学ぶことができ,知的刺激に満ちた旅となりました。このときには,ハンガリー出身の妻で共著者のオルソリー・フニャディが同行してくれたこともあり,個人的な面でもすばらしい旅となりました。私たちは一緒に,仏教寺院,荘厳で色鮮やかな庭園,すばらしい寿司レストラン,京都の「哲学の道」など,多くの思い出深い場所を訪れました。新型コロナウイルスの世界的流行で海外旅行が難しくなったいまとなっては,人生で最も楽しい旅行の1つだったと,何年も経ってから懐かしく振り返っています。
A theory of system justification(Jost, 2020)の日本語版出版に感激しています。カリフォルニア州サンタバーバラではじめて出会った旧知の北村英哉教授と,ちとせプレスの櫻井堂雄社長には,この先ずっと感謝することになります。この1年,私の本に対する彼らの熱意と,日本の読者のためにこの本を準備してくれた彼らの努力は,私にとって非常に大きな喜びとインスピレーションの源となりました。私が住み,働いているアメリカを含むおもに西洋の文脈で発展してきたアイデアが,アジアの社会関係の研究に何らかの科学的,社会的関連性をもつかもしれないという可能性はとてもすばらしいことです。社会科学における普遍主義的な野望は長期的にはうまくいかないだろうことは承知していますが,さまざまな文化的文脈における二者関係や,家族,学校,職場などの社会,経済,政治制度や仕組みを含む多様な社会システムに対して,真の有用性と適用性をもつ理論的枠組みを開発しようと,私は努めてきました。北村教授たちが,私の視点に価値を見出してくださったことを,私はとてもとても嬉しく思っています。
ニューヨーク大学(NYU),それ以前はカリフォルニア大学サンタバーバラ校とスタンフォード大学で教えている私は,日本からの留学生を何人か受け入れて来ました。2017年には,北村教授のサバティカル滞在をNYUで受け入れたことも光栄であり,現代日本の社会・政治問題に対する彼の鋭い分析から大きな恩恵を受けました。これらの非常に有益な情報源から,私は,家族や友人間の関係のネットワークを形成する力学,ジェンダー問題,権威者への敬意の重要性,さらには宗教,移民,経済生産性,集団間関係に対する態度など,日本のイデオロギーやシステム正当化の過程について学びました。第二次世界大戦後の日米関係の歴史も,複雑で議論の余地があることは承知していますが,システム正当化理論の観点からは魅力的なものです。外国が一部導入した新しい社会システムと新憲法が,敗戦の痛手を受けた国民にいかにして正当なものとして受け入れられていくのか,という一種の自然実験が行われたのです。20世紀から21世紀にかけての日本の社会的,経済的成功は,ある意味で,人間が依存する社会,経済,政治システムの変化に対する適応力と認知―動機づけの柔軟性を証明するものでしょう。
私の知る限り,このような日本のシステム正当化の実験的実証は,ニューヨーク市立大学大学院とブルックリン・カレッジのカーティス・D. ハーディン教授と彼の教え子の1人であるヨシムラカスミ氏が行ったのが最初だと思います。関西大学の学部生を対象に,「アメリカ覇権」条件では「日本や日本の文化はアメリカに劣っており,アメリカの支配に屈してきた,それが日本人の生き方にどのような影響を与えてきたか」,「日本覇権」条件では「日本や日本の文化はアメリカより優れており,アメリカや世界を支配してきた,それが日本人の生き方にどのように影響を与えてきたか」について記述させるという実験を行いました。彼らは,ケイとジョスト(Kay & Jost, 2003)の一般システム正当化尺度の日本語版の得点が高い人ほど,低い人よりも「アメリカ覇権」の条件下では外集団ひいきの態度,すなわち,日本よりもアメリカに有利となる政治的態度を表明することを見出したのです(Yoshimura & Hardin, 2009)。この画期的な論文の発表以来,他のいくつかの研究が日本,中国,韓国,その他のアジアの文脈におけるシステム正当化理論の含意を探ってきました(たとえば,Du & King, 2021; Kuang & Liu, 2012; Li et al., 2020a, 2020b; Liu et al., 2021; Napier et al., 2020; Seo & Hyun, 2018; Tan et al., 2016; Vargas-Salfate et al., 2018; Verniers & Vala, 2018; Yada & Ikegami, 2017; Yam et al., 2020; Zhang & Zhong, 2019)。
この『システム正当化理論』日本語版の読者が,私と共同研究者がこの四半世紀にわたって行ってきたことに興味と価値を見出すことを,私は心から願っています。さらにいえば,文化的,言語的,学問的な境界を越えることによって,全人類にとってより平等で,革新的,平和的,そして環境的に持続可能な未来を築くのに必要ないくつかのステップを踏むことができればと願っているのです。そして,運がよければ桜並木のある運河沿いをゆっくり歩いて再び会話を交わすことを始められることを願って。
2021年8月17日
アメリカ・ペンシルベニア州イーストン市
ジョン・T. ジョスト
序文
子どもの頃,西部劇ごっこが大好きだった。カウボーイハットやベストやバッジをつけて,敵にふんした友達にガンをぶっ放し,オハイオ州シンシナティの近所の草むらを駆け回っていた。『ガンスモーク』という西部劇テレビ番組が大好きだった。ウイスキーというものがどういうものかは知らなかったが,それは魔法の秘薬だと思っていた。少なくとも,ある意味,それは正しかったのだが。
しかし,リベラルでヒッピーに近い両親に真面目な話をすると言われて,ダイニングルームに呼び出されたとき,私のカウボーイ幻想は終わりを告げた。両親は私をテーブルに座らせ,一人前の大人として私に対して話をしてくれた(ように思う)。こんな会話を両親としたのは,憶えている限りこのときだけだった。「あなたがカウボーイのことを大好きなことは知っている。だけどね,本当の彼らはそんなよい人たちじゃないってことを知っておかなくてはいけない」と両親は言った。ジェノサイドという言葉を両親は使わなかったが,私はこの道徳的教訓に熱心に耳を傾けた。この微妙な歴史的出来事に関して,自分を信頼してくれたことに誇らしい気持ちになってこの会話を終えた。と同時に,楽しい遊びから卒業しなくてはいけないことを残念にも思っていた。両親の言葉の重要性を本当に理解したのは,何年も後,大学院生のときにジェームス・ボールドウィン(Baldwin, 1965)の文章を読んだときのことだった。
アメリカ黒人にとって,生まれたときから,見る人見る顔,すべて白人である。鏡を見るようになっていなければ,自分もまたそうだと思う。5~7歳の頃に大きなショックを受ける。みんなと一緒に忠誠を誓ってきた旗は,自分には忠誠を誓わない。ゲイリー・クーパーがインディアンを殺すのを見てショックを受ける。ゲイリー・クーパーを熱狂的に応援しながらも,インディアンは自分自身なのだ。
それと気づかずに,無数の方法を用いて私たちは支配的集団や個人の立場を支持する。このことによって翻弄される人々の物事の見方を貶めている。人々がどのようにそれを行っているのかが,私の主要な研究テーマであり,この本の主題でもある。ある意味,ボールドウィンが的確に指摘したこのショッキングな現象を理解し解明しようとして,ここ20年間研究を続けてきた。そして,「システムは虐げられた人々の現実感を破壊している」というボールドウィンの鋭い観察を綿密に調べてきた。そして,それにつけ加えて,システムは虐げている人たちの現実感をも破壊していること,少なくとも劇的に歪めていることを研究してきた。
哲学,社会理論,社会学,政治学,政治理論,人類学・経済学,組織行動学,(私が専門教育を受けた)心理学といったさまざまな背景や関心をもつ読者に対して,私が1990年代初期にイェール大学の博士課程の院生のときから発展させてきた理論的見方を基礎にした研究の概要を,詳細ではあるがわかりやすく,この本で提供したい。要約して示す研究の多くは純粋な実験社会心理学研究であると思われるかもしれない。しかし,パーソナリティ(個人差)研究や世論調査研究,そして,不利な立場に置かれた集団成員に対するインタビュー研究を含む質的研究の成果も利用している。
社会心理学ばかりでなく臨床心理学,認知心理学,発達心理学,それに加えて,哲学,社会学,政治科学といった他の分野の講義や演習に参加しているときに思い浮かんだ一連の疑問から,研究計画全体がスタートした。最初に自問したのは以下のような疑問である。なぜ,男性よりも低い賃金しか得られなくても当然だと考える女性がいるのだろうか? なぜ,黒い肌の人形より白い肌の人形の方に魅力を感じ,欲しいと思うアフリカ系アメリカ人の子どもがいるのだろうか? なぜ,不公正の犠牲者を責める人がいるのだろうか? なぜ,不公正の犠牲者自身もまた自責の念に駆られるのだろうか? なぜ,自分自身や仲間を守るために立ち上がることが難しいのだろうか? なぜ,個人的な変化や社会的変革は非常に難しいと,そして,苦痛とさえ感じてしまうのだろうか?
政治経済学で繰り返し問われるやっかいな疑問もあった。なぜ,貧しい人を含めてこれほど多くの人が富の再分配に反対するのか? なぜ,私たちは政治腐敗や経済腐敗に寛容なのか? なぜ,一連の世界的な金融危機と崩壊,そして金融機関救済を経験した後でも,さらに,数年前ではまったく想像できないような深く憂慮すべき政治的な変化がアメリカやヨーロッパで生じているにもかかわらず,激しい怒りが生じないのか? なぜ,気候関連の大災害が多くの生命の危機をもたらしているにもかかわらず,人為的気候変動の問題の解決に向けた進展が,社会政治的な理由から不可能なように思われるのか? これらの不平等や不公正や搾取といった社会的で心理的なやっかいな現象をすべて説明できる,普遍的な共通点はあるのか? これらの疑問こそ,私が知りたかったことであり,いまでも知りたいと思っていることなのだ。
何年か後,かつてイェール大学で私の先生の1人であった,ツイードジャケットを着た指導者レオナルド・W. ドゥーブが書いた一節に出会った。私が20代の頃,彼は80代であったが,毎週バークレー校の地階の研究室で20世紀の社会心理学と政治学の歴史について,文献を読み議論をしていた。オルポート兄弟(フロイドとゴードン),ハドレー・キャントリル,ムザファー・シェリフ,マックス・ウェルトハイマーといったこの分野の創始者たちとの彼の個人的なエピソードは,私を驚かせた。1930年代ドイツでポスドクであったドゥーブは,地方のビアホールを回って歩く1人の暴力的な政治扇動家の噂を聞いていた。もちろん,アドルフ・ヒトラーである。ノーマン・トーマスの伝統を受け継いだリベラルで熱心な社会主義者であったドゥーブ教授は,何年か後,全米科学財団から「未熟な反ファシスト」として批判されていたことを見つけて失望していた。
私の研究の基礎を形づくる多くの考えを,ジェームス・ボールドウィンと同様,レオナルド・ドゥーブがどれだけ豊かに先駆けて考えていたかについて,ほとんど知らなかった。おそらく意識的に気づかない形で,彼は私に考えを与えてくれていたのであろう。それは私にとって驚きでも何でもない。私が生まれる数年前に書かれた『愛国心とナショナリズム』の中で,ドゥーブは次のように書いている。
「そう,そういうものさ」。いまここに存在しているというそれだけの理由で現在の仕組みが正当化されるとき,既成事実であることがわかる。「ここにいるのだから,どうして動く必要がある。誰も動かすことはできないし,ここにいる権利がある」。顕在的にも潜在的にも自然主義的倫理からおそらく生じる確信によってこのような考えが維持される。いまあることは何でもそのとおり,そうでなければ,いまあるようにはならなかったのだから正しいのだ。
現状であるという申し立ては,継続しているという申し立てと同様に,過去という要素に基礎を置いている。慣習がうまく,または十分に,機能しているのならば,将来起こるかもしれない何かしらのリスクを冒す必要があるのか? 西洋のいくつかの国々の法理論で重要な役割を果たす慣例主義や先例拘束の原則は,1つには,現在や将来の指針として過去に信頼を置くことを反映している。軽々しいが正しい要約として,慣習に慣れるようになっている。さらに,何世代にもわたって長く存在しているものは,伝統によって神聖視されるようになり,乱してはならないものと信じられるようになる。
しかし,現状による正当化は満足できるものではないという疑念も出されるだろう。正しいと感じるためには別の何かが必要だ。所有は9割の法〔訳注:所有権の争いでは現在それを所有している人が有利ということわざ〕だと言われる。残りの1割によって生じる疑念は,さらなる申し立てによってのみ解消されるであろう。(Doob, 1964, p. 190)
大半の人々は社会的な現状の諸側面を防衛し支持し正当化するように動機づけられているという私の考えが正しいとすれば,残りの1割を正当化する方法を見つけることは比較的簡単であろう。
多大な影響を私に与えたもう1人の人物は,博士論文の指導教員であったウィリアム・J. マクガイアである。ビルは傑出した陽気で因習打破的な社会心理学者であった。政治心理学,とくに虚偽意識に関わるテーマに,私が足を突っ込むことに複雑な感情を抱いていたが,面倒見よく効果的に,とはいえ非常に厳しく指導してくれた。彼の指導を離れた後で,1999年に出版された彼の論文集『社会心理学の構築―創造的批判的過程』の中に,認知的不協和理論の基本的な洞察に関する,次のような一文を見つけた。「(人々は)自分の行動およびいまある物事に対して,事後的に自明ではない認知的正当化を行う」(McGuire, 1999, p. 107,強調は著者)。アンナ・フロイトやブルーノ・ベッテルハイムといった初期の精神力動家の流れをくむ攻撃者への同一視に関する議論と,認知的不協和理論の洞察を結びつけていた。結局,部分的かもしれないが,おそらく私たちは同じ立場をとっていたのだ。
非凡なもう1人のイェール大学での指導教員であったマーザリン・バナージ(現在はハーヴァード大学リチャード・クラーク・カボット教授)は,システム正当化理論を進展させるよう励ましてくれた。私の指導学生ならよく知っていることだが,1991年の春学期のステレオタイプと偏見に関する彼女のゼミに提出した1ページのリアクション・ペーパーと,それに基づいた期末レポートから,この理論は発展した。マーザリンはこのレポートを気に入ってくれた。そして,2つのラボによるこの理論に関する合同発表会となる会合に招待してくれた。これはコネティカット州ニューヘブンの『ナポリピザ』(皮肉なことにその後『ウオールストリートピザ』と名前を変えた)で開かれた。カーティス・D. ハーディン,アレキサンダー・J. ロットマン,アイリーン・V. ブレアーといった学友たちは活発な議論をしてくれた。そして,この理論を発展させ続けるよう促してくれた。
この本を読んでいただければ,大学院時代に重要だと私の心を捉えた疑問は,いまでも私にとって重要な問題であることはわかってもらえるだろう。この本で紹介するさまざまな研究プロジェクトの中で指導学生や共同研究者と私が解決しようと試みた疑問でもある。親愛なる読者のみなさま,これらの疑問に対して完全に満足できる答えを見つけられると約束することは私にはできない。しかし,理論的にも実証的にもこれらの疑問を解決しようと真摯に努力してきたことをわかってほしいし,これらの問題に対してあなた自身の考えを幾分かでも深化させることができることを願っている。詩人のリルケ(Rilke, 1984)は「疑問それ自体を愛するようにしなさい」(p. 34)と言っているが,このことこそ私が間違いなくしてきたことである。おそらく,私がこれまで見つけてきたものよりも優れた解答を,読者のみなさまは思いつくだろう。そうなることを願っている。まさにこのことこそが,私がこの本を書いた理由に他ならない。どのようにしたらシステム正当化動機を建設的に利用することができるのか,どのようにしたらシステム正当化動機が人類や他の生命に害を及ぼさないようにできるのか,こういったシステム正当化動機に関わるやっかいな未解決な問題に対して,今後数年・数十年にわたり,さらなる進展が見られることを願っている。
メディア掲載
『社会心理学研究』39巻3号に書評が掲載されました。評者は中越みずき氏(関西学院大学)。『社会心理学研究』39巻3号