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がんサバイバー

ある若手医師のがん闘病記

フィッツヒュー・モラン著/改田明子訳/小森康永解説

発行日: 2017年5月31日

体裁: 四六判上製248頁

ISBN: 978-4-908736-04-9

定価: 2300円+税

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電子書籍あり

内容紹介

「がん」とともに、生きる。

32歳の医師の胸に、がんが見つかった。「なぜ自分がこんなに目にあうのか」「がんがまた再発するのではないか」。

急性疾患でもない、慢性疾患でもない、がんサバイバーシップ概念を提唱したモラン医師の闘病記がついに翻訳! 医師でもあり患者でもある稀有な視点から、長期入院・療養生活中の治療や日々の出来事、医療従事者や家族・友人との交流、医療システムの抱える問題などを鮮やかに描く。仕事を見つめ直したい看護・心理・医療の実務家や、新しい生活を築いていく若い当事者、家族の胸を打つ闘病記。

目次

第1章 病気のはじまり

第2章 包囲

第3章 カトリン

第4章 召喚

第5章 復活

第6章 棚卸し

著者

フィッツヒュー・モラン(Fitzhugh Mullan)

モラン医師は、米国のワシントンDCにあるジョージ・ワシントン大学の保健政策・小児科教授である。米国および世界における医学教育の社会的使命に焦点をあてた研究と教育を行っている。ハーバード大学とシカゴ大学医学部を卒業。専門家と一般の人に向けた著作を幅広く執筆している。著作には本書『がんサバイバー――ある若手医師のがん闘病記』のほかに、『白衣と握りしめた拳――米国医師の政治教育』『巨大医療――プライマリケアの輪郭』(いずれも未邦訳)などがある。全米がんサバイバーシップ連合(The National Coalition for Cancer Survivorship)の初代会長を務めた。米国科学アカデミーの米国医学アカデミー会員である。妻と娘とともにメリーランド州ベセスダに在住。

訳者

改田明子(かいだ・あきこ)

1988 年東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得満期退学。現在,二松学舎大学文学部教授。著作に,『緩和ケアのコミュニケーション――希望のナラティヴを求めて』(新曜社,2013 年,翻訳),「母親の語りからみた重い障がいのある子どもとのコミュニケーション」(『二松学舎大学論集』59: 1-21,2016 年),「身体症状に関する認知の研究」(『二松学舎大学論集』44: A37-A57,2001 年)など。

解説者

小森康永(こもり・やすなが)

1985 年岐阜大学医学部卒業,1990~1991 年Mental Research Institute。現在,愛知県がんセンター中央病院精神腫瘍科部部長。著作に,『緩和ケアと時間』(金剛出版,2010 年),『ディグニティセラピーのすすめ――大切な人に手紙を書こう』(金剛出版,2011 年,共著),『はじめよう! がんの家族教室』(日本評論社,2015 年,編著)など。

日本語版への序文

一九七五年,三二歳の私は,新米の医師で妻と幼い娘がいた。撮影したばかりの自分の胸部レントゲンを観察したとき,がんに違いない大きくて危険な影が肺の中にあるのを見つけて,私は驚愕した。診断はすぐに確定し,私が注意深く設計していた生活は,自分の運命が,そして自分の若い家族の運命がどうなってしまうかという怖れ,怒り,全面的な苦痛によって,即座に埋め尽くされた。生か死かが,不安と揺れ動き続ける思考の焦点となった。いつになったら自分は死ぬのだろうか,それとも・・・・,いつになったら命が助かったとわかるのだろうか。いつになったら埋葬されるのだろうか。いつになったら人生を進めていけるのだろうか。

その疑問に答えることは,そう簡単ではないことが明らかになった。事実,いくつかの点で,今の私の中にもその疑問は存在し続けている。がんという診断は,望まない存在が自分の人生に侵入してきたことの刻印となった。短期的にはひどく破壊的で,そしてそれに続く歳月において永遠の亡霊となった存在。たしかに,サバイバーとしての私は精神と肉体をもち続けたのだが,生きることは,がんの治療,体力と身体機能における妥協,キャリアの問題,経済と健康の安全保障の不確実性,そして家族や友人のたくさんの心配をも含んでいるということに私は気づいたのだった。それとともに,がんの診断は,命,つまりただ生きていることに伴う不確実性と美しさについての新しい見方を私にもたらしたというのも事実だった。そして,私の場合,それは,自分の残された時間が六カ月であろうと六〇年であろうと,その時間を無駄にはしないという熱い決意をももたらした。

実際,そんなに単純なことではなかった。治療(手術,放射線,化学療法)はがんを打ち負かしたが,合併症と後遺症は何年も続いた。私の生活はがんによって変わってしまった。それは,身体的な限界,傷跡,健康保険の問題など,少しだけ挙げてみてもやっかいな変化だった。だがまた,それは予想もしなかったような仕方で,何十年にもわたって,新しい友情をもたらし,命の大切さの感覚を強め,大勢のがんサバイバーと介護者の懸け橋となるという変化でもあった。

診断のすぐあと,私は自分の「がんの旅路」について執筆する心づもりで日記を書こうと決意した。しかし,日記を書くという考えはあまりにも荷が重く苦痛であり,衰弱の過程でそれを諦めてしまうのに長い時間はかからなかった。私はひどく具合が悪く,自分自身の病気に対してジャーナリストとして振る舞うことなど不可能だった。だが,さらに時間が経過して,幸運にも初期の強い治療から先に進むことができ,健康を回復して元気が増し,患者になった医師が再び医師に戻ろうとしているそのとき,自分のこれまでたどった道について考え始めることができるようになってきた。私は,数年間にわたる自分の治療とそれが自分の生活と私の周囲の人々の生活に及ぼした衝撃をたくさん観察した。私は再び自分のストーリーの執筆に着手し,一九八三年,最初の胸のレントゲンの八年後,Vital Signs: A Young Doctor’s Struggle with Cancerを出版した。私はVital Signsを闘病記として執筆したのだが,がん治療の最前線からのはじめての個人的な報告でもあり,がんサバイバー運動に関する文献の中では早い時期の文献であったことがその後明らかになった。

Vital Signsの出版に続いて,私は販促のためのブックツアーで合衆国じゅうをまわる機会があり,がん治療センターのグループや聴衆として来ていたがん患者やその家族としばしば語り合った。これらの長い旅行と熱い議論を通じて,私にはっきりとしてきたことがある。それは,私たちすべてのがんの経験に共通するのは,実際の治療や個別の病気の経過や,死か寛解かの不確実性といったことではなく,まさしくその状況全体の不確実性だということであった。私たちはある診断を受けた。そして,同じように治療を受けたが,いつになったら病気を打ち負かすのか,もしくはいずれ病気を打ち負かすことができるのかどうかというようなことは,まったく不確実だった。同じように,実際のところ病気の経過が下り坂だったなら,どれくらい生きられるのかについてもほとんど予測することができなかった。サバイバーシップは,何よりもまず,不確実な事態であった。

サバイバルという季節

一九八五年の『ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスン』誌(NEJM)の論考において,「がんにかかった医師の考察―サバイバルという季節」というタイトルで,私はサバイバルの三つの「季節」という概念を描き出した。最初の季節は「急性期」である。それは,診断の時点から始まり,最初の医学的治療を通じて続き,手術,化学療法,放射線の組み合わせによる病気との闘いにほとんど専念する時期である。第二の季節は,「延長期」である。それは急性期に続く季節であり,病院の外に生活はほとんど移り,治療を継続しつつ再発への怖れと格闘しながら家庭生活と職業生活を再構築しようと努力する。第三の時期は,「長期安定期」であり,長期的な生存を思い描くようになる。だが,そこでは,たとえ医療的にはがんは打ち負かされたとしても,しばしばがんが人生の一部であり続けるという現実がある。多くの長期安定期サバイバーは,乳腺切除術,傷跡,体力低下,切除術といった身体的な妥協とともに生きていく。仕事の安定,健康保険,親密な関係は,すべてがんの経験によって影響を受ける可能性がある。長期的な健康とともに治療の二次的影響と晩発的影響があるということもまた,サバイバーの生活に含まれる新しい要因である。

「季節」の考えは,個人の経験がたどるロードマップとして見るべきではない。それぞれの季節は,けっして直線的なものではない。再発によって,人はすぐ急性期に戻る。延長期は,短期間のことも長い年月にわたることもある。ある期間サバイバーとして生きたのち病気に屈服して死を迎えるというサバイバーもある程度いるのだから,死もまたサバイバーとしての経験の一部である。一人ひとりの個人の結果がどうなるかはわからないが,診断を受けてからの生活の状況はわかっている。そして,私たちはそれらの状況の中で生活していくのだが,そのような生活条件は多くの意味で明白であるにもかかわらず,それに十分な注意を向ける人はいなかったのである。

「サバイバルという季節」が長く支持され,サバイバーシップ運動の基盤となる報告としてしばしば引用されることになったポイントは,それが診断後の期間をたんなる生か死かについてではなく,短くとも長くとも,生活の支障という面から認識していたということである。その支障は,個人にとってはなじみがなく恐ろしいものだが,実際にがんの診断の結果として予測できるものであり,健康システムはそれに備えることができる。毎年何百万人もの人が経験するこの困難な領域を衝撃から守り,計画し,「文明化」するために,サバイバーシップの問題は,医療者(おもに医師と看護師)や患者自身そして家族が認識し,取り組むことができる。

サバイバーシップ運動

それ以降何年にもわたり,たくさんの組織が一緒になってサバイバーシップに注目した。一九八六年,私は全米がんサバイバーシップ連合の設立に協力した。それは,現在でもがんサバイバーの権利を代表する組織である。私たちは,「サバイバーシップ」という言葉を使うとき,診断の日から起こるすべてのことだとサバイバーシップを定義してきた。私たちは,ミーティングで堂々と立ち,自分はどのぐらいの期間のサバイバーかを話して自己紹介した。まだ最終結果が不確かだからという理由で,自分のことをサバイバーだと宣言するのは厚かましいとか早すぎるとか感じている人に対しては,診断の日以外にサバイバーとしての生活を始める日はない,と伝えた。そして,がんサバイバーとして私たちに共通する経験とその痕跡を一緒に明らかにしましょうと促した。

私たちは,がん患者を集めて,病いのストーリーを語り合い,気分の落ち込みや快適な装具の発見といった諸問題に対処した経験を分かち合うように奨励した。グループのサポート,情報交換そして現在ピア学習と呼ばれていることは,サバイバーの心身の健康に価値ある貢献をすることがわかった。私たちは,ニュースレターを執筆し,全国集会や地域集会を開催して,『旅の計画―がんサバイバーのための資源年鑑』というタイトルの本を出版した。年とともに,それ以外のがん患者グループが特定のタイプのがんに焦点をあてて発展してきたが,それらのほとんどは,サバイバーシップ・プログラムの積極的な支持者である。サバイバーシップの研究は,学会でも際立った活動となり,一九九六年に国立がん研究所はこのテーマの研究を進めるためにがんサバイバーシップ部門を創設した。二〇〇五年,全米科学アカデミーの医学研究所は,「がん患者からがんサバイバーへ―移行の中で失われるもの」と題した報告を発表した。この研究から生まれた最重要勧告は,次のように主張する。「最初の治療を終えた患者は,明確で効果的に説明された包括的なケアのサマリーとフォローアップ計画を提供されなければならない。この『サバイバーシップ・ケアプラン』は,腫瘍科の治療を計画した主治医によって書かれなければならない」。

サバイバーシップの強化

一九八〇年代から現在に至るこれらの発展を振り返ると,がんの状況は変わってきた。がんは,一般常識で治療不能と考えられていた不吉な病気から,たくさんの人がその病気を抱えながら生きる,それはしばしばかなり長い期間であるような慢性疾患に変わってきた。慢性疾患として,病気を抱える人々,そしてまた病気のあとを生きている人々に関わる医療的,社会的問題を扱うために長期的な戦略を計画することが重要になった。標準治療を達成して,適切なフォローアップと長期的ながんのケアについて,医師,看護師その他の人々を訓練し,サバイバーシップ・ケアプランを実行することが,このがんサバイバーシップの新しい現実に伴ってもたらされた課題である。これらの治療的介入の多くは,依然としてがん治療において必要な水準にまでは達していない。

二〇世紀終盤のがん治療成功の増加に伴って,サバイバーの数は着実に増加している。もちろん,これは個人のレベルでも人口全体としても祝福に値する。しかしながら,がんサバイバーは,最初の治療が人間の生理に毒性のある介入,つまり放射線療法と化学療法に基づいているので,しばしば最初の治療の後遺症を経験する。

それでもなお,がん治療の二次的影響と晩発的影響を経験するのが,多くのがんサバイバーの現実である。サバイバーの増加と治療法の増加に伴い,この問題はかつてよりも重要性を増している。たとえば,初期のホジキン腫サバイバーの多くは,一九七〇年代に若い人々への強力な放射線により治療が成功した人々だが,現在では,ホジキン腫治療における心臓への放射線の晩発性副作用として深刻な心臓疾患の早期発症を経験している。ある意味で,この「心臓障害」はかつて「治療不能だった」がんを食い止めるために行われた,攻撃的でしばしば実験的な試みからは予測されうるものだ。だが,ホジキン腫やその他の耐性がんに用いられる治療方法による予測可能な二次的影響は,いっそう重要な研究テーマとなる必要があり,がん治療による二次的影響を回避し,減らすための方法が求められている。このことは,がん治療の精度を向上させ,可能な限り薬物の投与を制限し,薬物の照準を合わせるための努力が腫瘍学者のコミュニティで続いていないということを意味しているのではない。だが,サバイバーのコミュニティの見方からは,がん治療は,治療の二次的影響と晩発的影響を見極め,闘うための,焦点があった長期的な見通しを必要としている。私たちは,治療から派生する長期的な問題がどのようなものであり,どのような環境のもとに生じるのか,可能な限り知る必要がある。これは,長期的がん治療の成功と賢明なサバイバーシップへの絶対的な必要条件である。

振り返ると

私は四〇年以上のサバイバーシップを振り返るというおおいなる贅沢を享受しているが,同時に,四〇年の喜びは,がんの遺産としての身体的妥協によって彩られている。それは,私の人生においてがんが果たした役割を思い出させてくれる。たしかに,この四〇年は,それがいかに簡単に失われてしまうのかを知ったことによって増幅された人生のスリルによって彩られてきた。妥協によって鍛えられた喜びは,サバイバーシップの本質である。サバイバーシップは,私たちの多くにとって,それまで知らなかったような強さで人間的な満足感をもたらしてくれる豊かな生き方である。友人のサバイバーが,かつて私に語った。「赤は,ますます赤く」。その言葉の意味は,望みもしないのに死の瀬戸際に行ってきたから,命の美しさが彼にとってより鮮明になったということだ。

サバイバーシップが,日の単位であろうと月の単位であろうと年の単位であろうと,たしかに,赤はますます赤くなるのだ。

解説 最初のがんサバイバー,モラン教授のこと

小森康永

最初に教授のことを知ったのは,もちろん,がんサバイバーシップを明らかにしたことで知られている『ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスン』誌(The New England Journal of Medicine: NEJM)掲載の〝Seasons of Survival〟(一九八五年)を読んだときである。拙作「がんサバイバル地図」(図1,後掲)を載せたバイオサイコソーシャルに関する書籍は二〇一二年の夏には脱稿していたから,それより少し前のことだったはずだ。

フィッツヒュー・モラン(Fitzhugh Mullan)は,ハーバード大学卒業後,シカゴ大学で医学を学ぶ。バスケットボールが好きなスポーツマンで,健康そのものだった。公民権運動の闘士でもあり,一九七五年当時,三二歳の彼は,その活動を描いた著作『白衣と握りしめた拳』(White Coat, Clenched Fist,一九七六年)の校正をチェックしていた。小児科医になって六年目,順風満帆,サンタフェで,ソーシャルワーカーの妻と三歳の長女の三人で幸せに暮らしていた。父親は(グループセラピーを実践し,生命倫理を研究することになる)精神科医で,夫婦でワシントンDCに暮らし,二人のきょうだいもその近郊で独立。義父母はミネアポリスで健在と,どこにも病いの影はない。

ところが,三月。乳児の胸部写真を指示した際,三カ月前からの胸痛が気になり,みずからもレントゲン写真を撮って,偶然,縦隔腫瘍を発見する。異所性精上皮腫。ワシントンDCの病院に転院し,まずは生検が実施されるが,その際,大量出血で九死に一生を得る。化学療法,放射線療法を施行。九月には再就職し,一二月に次女が誕生。しかし,翌年,胸骨壊死により大規模な形成外科手術,長期入院となる。この頃,三歳の男児を養子に迎えることを決断。一九七七年一二月にワシントン『スター』紙のインタビューを受け,記事が掲載されると,病院では気まずい雰囲気となるが,一般読者から激励の手紙をたくさん受け取る。それに後押しされ,一九八三年,治療中のメモをまとめて闘病記『がんサバイバー』(Vital Signs)を出版。二年後には,NEJMにエポックメイキングな論考も掲載された。

(中略)

Ⅲ 『がんサバイバー』(Vital Signs,一九八三年)

(すでに本書をお読みになった)読者には重複であるが,闘病記に描かれたサバイバルの季節,急性期と延長期について印象的な場面を振り返っておこう。

急性期,入院患者同士の励まし合いやサポートは,医療者が考えるよりも深い絆となる。フィッツも急性期治療において知り合った患者との会話を披露している。六五歳の元海軍将校,ツヴィッカー氏とは,放射線療法が同じで毎日,車椅子を押してもらったのが縁になった。多少やつれてはいたものの,ハンサムで引き締まった体つきの,ペイズリーのガウンがよく似合う男性。かつてはカリブ海を行き来する貿易船商人でもあった。彼はある日,こう言った。「死にそうな目にあったことは何度かあるよ。死は君を見つけたり見逃したりするようなものだ。そんなときは,実際自分でできることはほとんどない。私の心構えは,それに直面したときにできるだけしぶとく,平常心でいようということだ」。二人の間にはさまざまな違いがあったものの,二人の関係は,フィッツが彼に「死を喜んで迎える準備はできているの?」と問うまでに深まる。自称アイスクリーム・ジャンキーは,いつものようにアイスクリームをうまそうに舐めながら,こう答えた。「死を喜んで迎えるやつなんていないと思うよ。来るものへの準備はできていると思うけれど,それは起こることを好きだという意味ではないんだ」(Mullan, 1983, pp. 49-52,本書四六~五〇ページ)。このような気のおけない会話によって入院中のフィッツはずいぶん,癒されたようだ。

次は,延長期だ。たとえば,職場における身体的制約について,フィッツは何ともリアルに書いている。再就職当初の体力と気力では,半日の勤務しかできず,自宅での午睡が習慣になったときだ。それは,みなが思うほどシンプルでも贅沢なことでもなかった。「私にとって,午睡は病気の象徴だった。薄暗い部屋のベッドに横になって,通りの元気な声を聞くとき,自分は病気なのだということが再度意識に上った。そして,私が寝ている間に自分の身体でさらに腫瘍が増殖しているのではないかとも思った。私の不安は,ベッドを離れているどんなときよりも,ベッドで寝ているときに最悪になった」(Mullan, 1983, p. 102,本書一〇〇~一〇一ページ)。

再発の恐怖について,フィッツは,退院後一年間毎月,フォローアップで胸部レントゲンを撮りに行ったときのことを回想する。何度行っても恐怖が軽くなることはなかったと。彼は,病院で撮った写真を腫瘍科医のクリニックまで持って行く間に自分で先にそれをいくらでも見ることができるわけだが,けっして見なかった。小児の肺炎の診療中に,三カ月ほど続いていた胸の痛みで念のためにと撮った胸部レントゲンでみずから腫瘍を見つけたという事実が,彼の脳裏を離れなかったからだ。

ちなみに,本書には,リジリアンス(resilience)という言葉は二回(一六五,一八七ページ)しか出てこないが,まさに彼のリジリアンスを描いている。「雨降って,地固まる」というこの臨床概念はさまざまな心理社会領域において現在注目されているが,がん領域は,貧困,災害,児童虐待に続いて,リジリアンス研究の主要なテーマになっている(『家族療法研究』第三三巻第三号を参照のこと)。

(後略)