人間界のルールとは?

ネコとの生活から道徳性を考える

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「道徳」に対して,みなさんはどのような印象をもっているでしょうか? 私たちの社会には,道徳的なルールや決まり,善悪の基準などがはりめぐらされているようです。私たちは道徳をどのように理解しているのでしょうか? 道徳性発達が専門の長谷川真里・横浜市立大学教授が,ネコとの生活から人間の道徳性を考えます。

Author_hasegawamari長谷川真里(はせがわ・まり):2003年,お茶の水女子大学大学院博士後期課程修了,博士(人文科学)。現在,横浜市立大学国際総合科学部教授。主要著作に,『言論の自由に関する社会的判断の発達』(風間書房,2004年),「社会科教育と社会認識の発達」(『児童心理学の進歩 55巻』金子書房,2016年)など。

最近ネコを飼い始めました。私はネコが好きです。嚙まれようとひっかかれようとたんなるご飯提供人と思われていようと,その姿形が好きなんです。見ているだけで和むのです。

人間の家で暮らしていただくためには,最低限の人間界のルールを覚えていただかなくてはなりません。私がパソコンに向かうとき勝手にキーボードを押して「@:;;』_オオオオオBKV」などという意味不明の文章を打ってはいけません。ご飯はお椀に入れて差し上げるのだから餌袋本体に頭を突っ込んではいけません。出勤前に私の膝の上に乗って私の心をとろけさせてはいけません。そう考えると,人間界にはかくも勝手なルールがはりめぐらされているわけです。

ルールと書きましたが,やっていいことと悪いことの基準と言い換えることもできます。つまり,善悪の基準です。わが家のルールであればことは簡単です。飼い主が恣意的にルールをつくり,住人のネコにそれを強いるわけです。でもこれは家庭内のルールのこと。一歩外に出れば,社会のルールがあります。

善悪の基準なんて人それぞれでいい,というのは楽観的すぎるでしょう。みんなが好き勝手にしてよいとなると,社会の秩序が崩壊してしまいます。実際,やっていいことと悪いことの基準はある程度コンセンサスがとれています。たとえば,小学校の教室で「人を殺してもよいかどうか」と問うとしましょう。わざと悪ぶって答える場合を除くならば,ほぼ全員が「してはいけない」と答えるはずです。

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これは当たり前のようでいて驚くべきことです。好きな食べ物やタレントについて,あるいは将来の夢についてなどを考えるとすぐにわかるでしょう。人々の意見が一致することはそうそうあるものではありません。それなのに,こと道徳に限ると,善悪の基準が一致することが(よく)あるのです。一致しないまでも,社会的なルールはみんなが守らなければならないと考えられています。

では,私たちはルールをどのように理解し,共有するのでしょうか? わが家のネコに関していえば,飼い主の私にとって都合のよい行動をしたときにおやつなどの報酬を与え,テーブルの上に乗るなど,してほしくない行動をするときには大きな音を立てるなどネガティブな体験をさせることによって,次からよい行動をするように,よくない行動をしないように学ばせます。心理学でいうところのオペラント条件づけです。オペラント条件づけはなかなか有効です。ネコであってもある程度はルールを守る行動ができるようになるかもしれません。しかしながら,社会的ルールを守るべきであるとネコが考えているとは思えません。1つひとつの行動とともによい結果やよくない結果が生じる(随伴する)ことにより,それぞれの行動の出現頻度が変化したということにすぎません。

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わが家のネコに限らず,イヌやサルなどの動物は,「自分たちがルールを共有する」という感覚をもたないといわれます。感覚や注意の共有は,人間に最も近いといわれる類人猿でさえも難しいからです。たとえば,人間が複数の入れ物の1つを指さすと,類人猿はその指先にある入れ物を見ることはできます。しかしながら,その中の1つに餌が入っていることを示すための指さしについては,指さしの意図を想定できず,複数の入れ物すべてを探すといわれます。人間の子どもならば,1,2歳でもこの課題に成功します。類人猿は,食べ物同士の比較もできるし,簡単な言葉も使用できます。画像記憶は人間よりもはるかに優れています。しかし,感覚や注意を共有することは難しいのです。

それでは,人間はどのようにルールを学ぶのでしょうか? 誰もが最初思いつくのは,「親や大人が善悪の基準を子どもに教える」というものです。たしかに,子どもは親や教師からルールを教わります。生まれたばかりの赤ちゃんが大人とまったく同じ知識や基準をもっているわけではなく,何らかの形で学んでいくものだからです。しかし,人間は真っ白な状態で生まれて,一から善悪を教えられる,という存在ではありません。近年,赤ちゃん研究が進み,0歳代の赤ちゃんでもよい人と悪い人の区別などができることがわかってきました。つまり,我々は生得的に,道徳的なセンスをもって生まれるようなのです

さらに,人間には「わたしたち性(we-ness)」という,我々意識ともいうべき志向性が存在するともいわれています。たとえば,トマセロ(Michael Tomasello)たちのグループが行った実験では,3歳児の次のような様子が見られました。まず,子どもは1人遊び用のゲームの遊び方を教わります。そのあと,ぬいぐるみがやってきて,「僕もゲームがやりたい」と言うのですが,子どもが教わったのとは違うやり方で遊ぼうとします。子どもはこれに対して意義を唱えます。「そうするんじゃない」「こうやるんだよ」というように,教わった通りのルールをぬいぐるみに教えようとします。つまり,わずか3歳の子どもでも,ルールは守らなくてはならないものであり,それは自分だけが守ればよいのではなく,みんなが守らなくてはならないのだ,ということ,いうなればルールの義務性を理解しているのです。

その一方で,現実は多層的な意味世界から構成されています。わが家のネコのように,狭い世界で一生暮らすのであれば,多層的な意味世界に生きる必要性はないかもしれませんが,子どもは成長とともに生活空間を拡大していきます。学校や地域社会というフォーマルな集団のみならず,友達関係というインフォーマルな集団に属します。これは,それぞれの集団の中で善悪の基準が異なるという単純なことではありません。道徳的価値は同じでも,我々の行動は,それぞれの意味世界において異なる様相を見せます。

先日ある小学校の先生から聞いた話をご紹介しましょう。日本の小学生と中国の小学生が「自分が席を外している間に,友達がチョコレートを全部食べてしまった」というストーリーを聞いて,それぞれの国の道徳の時間の中で話し合ったのだそうです。そのときあなたはどのような気持ちになりますか,と聞かれた日本の小学生は「とても腹が立つ」と答えたそうです。その話を聞いた中国の小学生は,「日本人はすごく心が狭い」という感想をもったということです。その後日本と中国の子どもたちが話し合った結果,友達を大切に思う気持ちは同じだけど,中国の子どもたちは「友達だからチョコを全部食べてもいい」と思う一方,日本の子どもたちは「自分のものという意識も大切」と考えるのだそうです。その後,2つの文化の子どもたちは「友達は大切だ」という道徳的価値は共通するけれども,別の要素によって違った結論になったり,異なる感情を抱いたりすることの理解にまで到達したとのことです。

たとえば「噓」一つとってみても,どのような場面でどのような相手に噓をつくかで,よいことにも悪いことにもなります。時には,正直に言うことが相手を傷つけることになるかもしれません。「ホワイト・ライ」(white lie)という言葉がありますが,あえて噓をつく方が道徳的であることもあります。このように,道徳的価値はそれ自体が問題になるのではなく,文脈とセットとなり判断されるのかもしれません。

不思議なもので,学校の道徳の時間にルールを守りましょうと言われ,ルール遵守が推奨される一方で,決まりをきちんと守る人が魅力的とは感じられないこともあります。ルールを守りすぎる人は,「杓子定規」「お堅い」などと言われます。ときには「ハメを外して」いたずらをする人の方が人気者になるかもしれません。このあたりが,人間の複雑で味わい深いところでもありますが,状況に応じて柔軟に判断できることこそが,人間社会にとって最も重要なのかもしれません。

ネコの話からずいぶんと大きな話に展開してしまいました。ネコに接していると,人間の言葉がわかっているような気になってしまい,なぜルールを守ってくれないの,と思ってしまいます。ルールに義務性があることを当然と思い,それを共有している人間にとって,ルールそれ自体の意味を考えるきっかけをネコが与えてくれた……ということではなく,勝手な行動をするネコ様に振りまわされつつも,今日も私のスマホの写真フォルダはわが家の愛猫に侵略されていくのです。

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