社会は心の健康にどう取り組むべきか?(3)

『心理療法がひらく未来』監訳者あとがきより

7 勘からエビデンスへ

7・1 エビデンスにもとづく健康政策とNICE

第2のパラダイムシフトは、勘からエビデンスへの動きである。エビデンスとは、治療効果の科学的根拠のことである。これまで臨床家の勘と経験に頼っていた臨床実践が、エビデンスにももとづいておこなわれるようになった。

それを象徴するのが、イギリスの国立医療技術評価機構(NICE)である。NICEについては、第8章冒頭および第10章冒頭で紹介されている。イギリス政府は「エビデンスにもとづく健康政策(エビデンス・ベースト・ヘルス・ポリシー)」を基本とするようになった。これは、科学的なエビデンスがしっかりしている治療法に医療費を投入するという考え方である。限りある医療費は効果のある治療に使うべきであり、効果のない治療に税金を投入するという無駄は許されない。イギリスは財政難に苦しんでおり、医療費削減のために、あらゆる領域の医療に対して、治療効果のエビデンスを求めるようになった。こうしたポリシーを実現するために、イギリス政府は、1999年に、NICEという国立機関をつくったのである。NICEは、あらゆる疾患の治療法のエビデンスを調査し、これまでに100本以上のNICEガイドラインを発表してきた。うつ病や不安障害などに関するNICEガイドラインは、表10-1、表10-2、表10-3に示されている。

NICEガイドラインを忠実に実現しようとした政策がIAPTであるから、IAPTは「エビデンスにもとづく健康政策」の典型であるといえる。それにしても、NICEガイドラインが「心理療法に科学的根拠がある」と認めたことは、心理療法の歴史において画期的なことだった。

財政難からケチケチ政策をとっているイギリス政府が、心理療法のような一種の「ぜいたく品」によくお金を払ったものだと驚く。しかし、じつは、財政難であるからこそ、前述のように休職者が減り社会保障費が減らせるという「費用対効果」に説得されたのだろう。

7・2 エビデンスとは何か

ここでいう「エビデンス(科学的根拠)」とはどういうものだろうか。この動きはもともと身体医学における「エビデンスにもとづく医学(エビデンス・ベースト・メディスン)」から起こってきた。ある疾患に対して、薬物など医学的治療の効果を定量的に調べて、どの治療法がもっとも効果があるかを明らかにする方法である。のちに身体医学だけでなく、精神医学や看護学などにも及ぶようになった。心理療法についても例外ではなく、「エビデンスにもとづく心理療法」という考え方が定着した。

とはいえ、はたして、心理療法という形のないものの効果を量的に示すことは可能なのだろうか? たしかに、これまでは、そんなことは不可能だと思われてきた。しかし、この20年の臨床心理学の発展によって、それが可能となった。こうした研究は「治療効果研究」と呼ばれ、第8章第1節で述べられている。

心理療法では、1人の事例について治療効果を調べる「事例研究」が広くおこなわれているが、これでは、その治療が本当に効果があるのかを確かめることはできない。たとえば、第8章第1節で述べられている外傷後ストレス障害に対する「デブリーフィング法」の効果のように、事例研究だけでは結論を誤ってしまうことがある。事例研究では効果があった人もいたが、しかし、比較対照群を設けて対照試験をおこなうと、デブリーフィング法は、むしろ外傷後ストレス障害からの回復を阻害するという逆効果をもつことがわかった。いくら善意でおこなった治療だとしても、結果的には患者を傷つけてしまっていたことになる。このような反省から、対照試験が重視されるようになったのである。さらに、もっとも確かな科学的結論が得られる方法として、無作為割付対照試験(RCT)がある。欧米の臨床心理学の専門誌を見ると、ほとんどが対照試験やRCTを用いた論文になっている。こうして対照試験やRCTを用いた治療効果研究によって明らかにされた科学的知見のことをエビデンスと呼んでいる。

エビデンスがたくさん得られるようになると、ある症状に対して、どの技法がもっとも効果が高いかがわかるようになり、イギリスのNICEガイドラインのような心理療法のガイドラインがつくられた。アメリカでは、アメリカ心理学会の第12部会(臨床心理学部会)が1993年に発表した「経験に裏づけられた治療」というガイドラインがよく知られている(その後、何度もアップデートされており、最新版は2006年のもの)。こうしたガイドラインを見ると、もっとも多く選ばれているのが認知行動療法であり、これが認知行動療法の普及を後押しした。


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