日本の部活(BUKATSU)のあり方を考える(3)

対談:内田良×尾見康博

心理学者の尾見康博・山梨大学教授と,教育社会学者の内田良・名古屋大学准教授が,日本の部活のあり方を考えます。第3回(最終回)は体罰やリスク,そしてに楽しみとしてのスポーツについて。

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「体罰に納得している」学生たち

内田:

最初から答えが決まっているものに抵抗を感じるというところに,共感します。だからといって人権が嫌いでもないのですが。体罰に満足している人たちがたくさんいるという点は,最初から答えが決まっている言葉からは見えないように思います。

Author_uchida-ryo内田良(うちだ・りょう):名古屋大学大学院教育発達科学研究科准教授。主著に,『ブラック部活動――子どもと:の苦しみに向き合う』(東洋館出版社,2017年),『学校ハラスメント――暴力・セクハラ・部活動―なぜ教育は「行き過ぎる」か』(朝日新聞出版,2019年),『教師のブラック残業――「定額働かせ放題」を強いる給特法とは?!』(学陽書房,2018年,共著)など。→Twitter(@RyoUchida_RIRIS) →webサイト

尾見:

「自分がいまあるのはそのときの体罰のおかげだ」と,本気で言っているわけですからね。

Author_omi-yasuhiro尾見康博(おみ・やすひろ):山梨大学大学院総合研究部教授。主著に,『日本の部活(BUKATSU)――文化と心理・行動を読み解く』(ちとせプレス,2019年),The potential of the globalization of education in Japan: The Japanese style of school sports activities (Bukatsu).(Educational contexts and borders through a cultural lens: Looking inside, viewing outside. Springer, pp. 255-266, 2015年),Lives and relationships: Culture in transitions between social roles. Advances in cultural psychology.(Information Age Publishing, 2013年,共編),『好意・善意のディスコミュニケーション―文脈依存的ソーシャル・サポート論の展開』(アゴラブックス,2010年)など。→Twitter(@omiyas)→webサイト

内田:

本には学生の声が書いてあって,「体罰に納得している」人が約8割ということにも驚きました。同じような調査は他にもありますが,「納得している」という学生の自由記述の言葉を読んだときに非常にリアルに感じました。実際に言葉として表現されているものを見て,こんなふうに納得しているのかと驚きました。

尾見:

あの調査は調査としてはめちゃめちゃな調査で,社会的望ましさのバイアスがかかりやすいものでした。教職の授業の受講生でしたし,体罰の問題として桜宮高校の話題がメディアにも流れていた時期に,しかも「体罰を見たことも聞いたこともない」と書けばあっという間に終わる調査でした。それなのに,「体罰があった」と答え,しかも「そのおかげでいまの自分がある」と書いてしまうのは本当に衝撃でした。

内田:

あれはいつ頃の調査ですか。

尾見:

桜宮高校の事件が1月に報じられた年の11月ぐらいだったと思います。

内田:

体罰問題が,かなり注目されていた時期ですね。

尾見:

その後,女子柔道の監督の体罰事件もあった頃です。そのときに教員養成の学生がそのような回答するのかと思いました。教員養成系の授業をたくさん受けている学生が,しれっとそう書いて提出してしまうわけです。匿名でもないのに,「体罰が素晴らしい」と大学の教員に向かって言ってしまう。凄まじいですよね。

内田:

匿名じゃないですしね。あの状況の中で,体罰を正当化しているという点が,体罰問題の根深さを示しています。

尾見:

「少なくとも自分が受けたのは体罰ではないと思います」と平気で言うわけですよね。 「体罰を受けたことがあるか」という問いに「はい」と答えているのに,「自分が受けたのは体罰じゃない」と,そういう言葉のハンドリングをしてしまっているのが,すごいことだなと思います。

内田:

これは僕もやばいなと思いました。

尾見:

その後も調査をして,「体罰を受けたことがある」という割合は減りましたが,「納得している」と回答する割合は減っていないように思います。

内田:

本の中に書かれていますが,娘さんが日本に戻ってきてから,全面的に日本の部活はおかしいと言うのかと思ったら,「続けられたのは,(中略)このメンバーとバスケ自体が大好きだったからだと思います」と最後に言うのは傑作でした。

尾見:

再適応の証ですよね。

内田:

前半部分は部活動に対する文句だったのに。「なんでストレス発散するはずの運動で悩まされなきゃいけないんだろう」と言いながら,「このメンバーとバスケ自体が大好きだった」というのは名言ですよね。この言葉にすべてが凝縮されていますね。こぼれ落ちる子たちを救うセーフティーネットのような。あの言葉はショックでしたね。

リスクは乗り越えるべきものか?――主体的な学びとしての部活

内田:

僕が最近考えていることがありまして,それを尾見先生がどう考えるかをお伺いしたいです。僕は部活だけではなく,もともと子どもの事故防止のことをやってきて,その後はハラスメントや暴力に関心が移り,いまは教員の働き方を含むいろいろなことをやっています。そのなかで見えてきたことがあって,組み体操もそうなのですが,「リスクがあったときにそこを乗り越えてこそ成長する」という考えがあります。

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先生方は,「リスクを乗り越えてこそいろいろな感覚が身につくし,成長できる」「チャレンジできなくなったら終わりだ」というわけです。本当は巨大なリスクを前にしたとき,あるいは巨大かどうかわからないリスクを前にしたときに,「このリスクをとるべきなのかどうか。ここは危険ではないか」と,立ち止まって考えなければいけない。たとえば週6日であれば体を壊すかもしれないし,勉強ができなくなってしまうけれど,週4日であればいいかもとか,そこで本当は考えなければいけない。それなのに勝利至上主義や一途主義は考える暇も与えない。常にリスクに向かってそれを乗り越えていけと,そして成長していくのだというわけです。本当は目の前にある大きさのわからないリスクに対して,まずどのくらいの大きさかを考える必要があると強く感じます。

つまりリスクを乗り越えるというのは教育でもなんでもない。でも考えるというのは教育に入ってくると思います。「このリスクはどのくらいあるのだろうか」「どのくらいであれば体に負荷があるのだろうか」ということを理解するために勉強しなければいけない。リスクをとって成長するのではなく,回避すべきかどうかを考えて成長していくことが,目指すべきモデルなのではないかと僕は考えています。このことについて,尾見先生と重なる部分がたくさんあると思うのですが,どのように思われますか。勝利至上主義,気持ち主義,一途主義は,リスクに立ち向かってそれを乗り越えていくモデルですよね。

尾見:

僕はたぶん内田先生ほど教育について熱心に考えていないと思うのですが,それらの主義は考える時間も体力も与えないというようなものですよね。いま,主体的な学びということが言われていますが,僕は主体的な学びが成功するかどうかは部活が変わるかでわかると思っています。部活が変わらなければ,主体的な学びが成功しなかったと言えるのではないかと思います。現状として,主体的に学ばない典型的な場所ですから。

内田:

なるほど,なるほど。

尾見:

教室の中では主体的に学ぼうとしているし,実際に小学校を中心に教科教育では教師によっては工夫していままで以上に子どもたちに考えさせるような授業を展開されていると思います。それが部活に現れるかどうかですね。部活が変わって,みんなが考えて取り組むようになるかどうか,つまり自分の力量に応じた練習の仕方が展開できることを顧問が認めて,顧問が生徒に考えさせて,生徒によっては週に4日にするとかを顧問と相談しながら決める,というようなやり方をできるようになったとしたら,それこそ主体的な学びだと思うわけです。一番そうできていない場所が部活だと思います。内田先生の言われたリスクの話とどこまでつながるかわからないですか。

内田:

僕が目指したいのが,主体的に考えながらリスクを判断していくということですから,つながります。結局いまの部活は考えていないわけですよね。

尾見:

ただ,仕方ないですよね。部活に関して研修もないし,学習指導要領にも書かれていないし。どうやっていいかが教員に任されてしまっていますから。自分の受けてきた経験か,前任者や他の先生のやり方を見様見真似するしかない。よほど余裕があって,コーチングを勉強する人もいるかもしれませんが,そうでもなければ片手間でやる部活の指導にそこまでコストをかけていられないと思いますよね。お金も出ないですし。

内田:

だから経験則が再生産されるわけですね。やってきたものをそのまま繰り返す。自分も殴られて育ったから,こいつも殴られれば「よかった」と思うだろうと。

尾見:

ハラスメントと同じですね,きっと。昔のように「セクハラ」という言葉がなかったときはセクハラではなかったわけですから。社員同士の交流の一環として,触るのがOKだったわけでしょう。不快に思った女性ももちろんいたと思いますが,不快に思わなくなった人もいたと思います。関係するかわかりませんが,本に書いたことでいえばケガに対する鈍感さも部活に感じました。アメリカと比べて,日本人はケガに,あるいは命に対して鈍感といってもいいかもしれません。アメリカではちょっとこけただけで交代させるし,「大丈夫か」と声をかける。一方,日本では明らかにフラフラなのに体育館が暑いなか交代させないですから。

内田:

そこを乗り越えてこそ成長できるというストーリー。実際にそう感じる生徒も少なからずいますが,何人かの犠牲の上に成り立つ成長物語は不要です。

尾見:

日本の学校がいかにひどいかがよくわかりました。本当に倒れるまで選手を交代させないシーンを見て,中学生なのに,と驚きました。「ケガをして一人前」とか,「ケガしてなんぼ」というのも経験則だと思いますが,危険すぎると思いました。アメリカではまずありえない。日本から見れば甘やかしていると見えるかもしれないし,過保護のようにも見えるかもしれません。しかし,アメリカやヨーロッパでも昔は体罰がそれなりにありましたが,減らしてきた歴史があるわけです。主観的な見方かもしれませんが,この30年くらいで日本が変わらない間に,欧米が変わったのではないかなと思っています。「20年くらい前まではそんなことをやっていたけどね」と海外の学校の先生が言うのを耳にしたこともあります。経験則のままずっと日本では続いていますが,バブルがはじける頃までは海外とそれほど違っていなかったのかもしれない。印象でしかありませんが。

内田:

ヨーロッパでは,叩くのがむしろしつけの一環だったと言いますものね。それを改善してきたわけですね。それはそう思います。

尾見:

内田先生だから人権という言葉を使いますが,子どもの人権を広げてきた結果ですよね。

子どもにも,楽しみとしてのスポーツを

内田:

もう1つ伺いたいことがあります。L(ライフプラン)活動とH(ハイパフォーマンス)活動というこれからの活動のあり方についてです。スポーツを研究する人たちの多くは,「頑張るスポーツと楽しみとしてのスポーツを分けるべきだ」ということについては,同じような考えに到達していると思います。大人の場合はスポーツでもサッカーでもジョギングでも野球でも一生涯を見通した活動を行って,勝っても負けてもみんな笑っているような,楽しみとしてのスポーツがあります。それとは別に,ほんの一部ですが,オリンピックに出たりプロになったりということがあります。大人の世界では明確にハイパフォーマンスとライフプランとが分かれていますよね。なぜ子どもの世界ではそれが成立していないのだろうと思いました。僕も,熱心な大人や子どもで頑張りたい人がいることはわかるけれども,頑張りたい人にみんなが引っ張られるいまの部活のシステムはおかしいのではないかと思います。金メダルを目指したいような人は,民間のクラブチームで育つような仕組みにするべきだと思います。よくよく考えてみると,なぜそういうすみ分けが大人にはあって子どもにはないのだろうかと,尾見先生の本を読んだときにふと疑問に思いました。どのように考えられますか。

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尾見:

的確に応えられるかわかりませんが,どこの国であっても最初からL活動とH活動とに分かれているわけではないと思います。生まれてすぐに遺伝子検査をして,この子は確率的にオリンピック選手になりそうだ,ということはないです。小学校に入るか入らないかぐらいでは,日本ではサッカーは人気があると思いますが,サッカーがあまり人気のないアメリカでも,子どもにはものすごくサッカーが人気です。

内田:

そうなのですか。アメリカンフットボールではなくて,ですか?

尾見:

アメリカンフットボールはルールが難しすぎますし,危険なので大きくならないとできないんです。アメリカでは,小学校3年生くらいまでのサッカー人口はものすごく多いです。これはL活動とH活動が分かれていない1つの象徴だと思います。欧米では子どものうちは6人制のサッカーをしていて,小さいフィールドで,できるだけみんながボールに触れるような仕組みにしています。年齢が上がるにつれて,だんだんと8人制,11人制と増えていくわけですが,サッカーはとりあえず蹴ればよいだけなので,よほどの技術の差がなければ,みんながボールに触れます。触れなくてもボールを追いかけるだけでも,体力はつき運動になる。基礎的な集団競技としては非常によいのだと僕は理解しています。なので,ものすごく人口が多くて,なかにはサッカーがうまくなる人もいますが。アメリカで多いのは複数のスポーツを同時にするケースです。シーズン制にもなっていて,週末にスポーツをする家族は,あっちに行ったりこっちに行ったり,朝から晩までとても忙しくしています。

内田:

尾見先生もけっこうされたのですか。

尾見:

子どもが2人いましたから,車が2台必要になったし,週末は忙しかったです。小学校の間ぐらいまでは3つも4つもスポーツをやっている人は,アメリカではたくさんいました。アメリカンフットボールはせいぜい日本でいう中学生くらいからでしょうか。アメリカンフットボールはルールも複雑ですし,タックルもありますし,少なくとも私が住んでいた地域では小学生クラスでは圧倒的にサッカー人口が多かったです。小さいうちから,アメリカンフットボールのボールを親子で投げたりするシーンはよく見ますし,ピーウィーフットボールという子ども向けのフットボールもあるようですが。野球だとティーボールといって打つだけのルールもあり,小さい頃からやられています。日本でも少年野球がありますね。

L活動とH活動が分かれていなくて,またいろいろな種目を試すことができると,自分の向き不向きや好き嫌いがわかってくる。「自分はサッカーが好きだけれど,あまりうまくないな」と小学生ながらわかると思います。「ホッケーだったらけっこういけそうだな」とか思うかもしれない。いろいろな適性を自分や親などが知る機会をもてるということがすごくいいなと思います。そうする間に学年が上がるにつれて,そういうことはなくなってきて,だんだんと競技を絞っていく。ある年齢まで行くと地域のクラブチームがある。向こうのクラブチームにはトライアウトがあり,たとえば,バスケットボールをしている子どもが,「このチームでは自分は身長が高くてセンターをすることになって伸びないので,向こうのチームに入ってガードをやりたい」といった選び方をしたりもします。アメリカでは中学校レベルでそういうことがあります。お金のハードルがありますので,それは別途議論しなければいけないことですが,いろいろなチャンスがありいろいろな競技を学ぶ機会があります。ある年齢になれば強いチームが身近に存在して,親なり本人が高いレベルでと思えば,そういうチャンスがある。ただトライアウトで落とされる可能性もある。

内田:

なるほど。競技レベルを選べるようになっているということですね。競技種目自体も選べる。日本の部活では,全国大会を頂点とするような形で勝利至上主義になっています。民業圧迫ではないかと僕は思うのですが。

尾見:

本当にそうで,お金をたくさん生み出すことができるのにと思います。アメリカを見ていると,「うまいなあ。これが資本主義だな」と思います。たとえば,私の子どもたちのバスケットボールの地域の代表チームが隣町の学校の体育館で試合をするとき,入場料を5ドルとったり,ポップコーンやドリンクを売ったりしていました。運営にもお金がかかりますが,それを日本では補欠やマネージャーがやっているわけです。場合によっては顧問も負担しますね。お金を払ってでも見る人は日本でも多いと思うのですが。

内田:

ただ働きでずっとやってきたので,膨れ上がった部活動をどうするかは本当に大きな課題だと思います。それは心理学でも社会学でもなく,行政の課題だとは思いますが。まだ予算もついて膨れ上がったのであれば,「他で誰かやってください」と言ってもいいのでしょうけれど,予算がないなかで膨れ上がってしまい,またその背景に4つの主義が支えているというところが難しいですね。むしろお金のかかっていないことこそが,この4つの主義と親和的であるのかもしれません。

部活の心理学のこれから

――私の子どもも小学生なのですが,本当に日本だと1つの競技しかできないですよね。アメリカのようにいろいろと選べて楽しんでやれたらいいのに,と思うことがあります。あと,感想めいたことですが,生徒でも保護者でも顧問でも,熱心な人がいると全体がそちらに引っ張られてしまいますが,それはなぜなのだろうというのは疑問に思いました。

内田:

そこは不幸ですよね。

――そこに集団のもつ心理的な側面がありそうだなと思いました。人がそちらに引っ張られてしまうのだなと。

尾見:

熱心なことが社会的に望ましいからではないでしょうか。一途主義に近いかもしれませんが,熱心なことを否定するのは難しいでしょう。

内田:

あと,そこに価値が絡んでいて,勝つ方がやはり嬉しいですし。すみ分けすれば,負けても笑っていられることができるのでしょうけれど。

尾見:

保護者にもヒエラルキーができてきますよね。うまい選手の親だと,いやいやでも参加せざるをえないことになってくる。「キャプテンの親なのだから,やるのが当たり前だろう」ということになったりします。

内田:

関係ないはずですよね。

尾見:

本来は関係ないはずなのですが,心情的にはありますよね。自分の子どもがベンチウォーマーだったときもあるし,キャプテンだったときもあるので両方を経験しているのですが,ベンチウォーマーのときは居場所がない感じがします。プレーを見ていて親も盛り上がりますが,「お前,何をやっているんだ」と言える親と言えない親が出てくる。そこにカーストみたいなのができてしまう。親としてもわかるわけです。「あの子の親御さんは見に来ているのに子どもは出ていないな」とか,微妙に同情的な思いも出てくることもある。桜宮高校のレベルまで行くと,親がぐいぐいと引っ張っていきますし,現役よりもOBがうるさいこともある。構造的にものすごく複雑になっていて,「触れると危険」なものになっている。部活の仕組みという大きな流れを食い止めることは難しいとは思います。「正しいかどうかを考えるよう」と言うことは難しいし,面倒くさいことですから。うまい子の親ほど熱心になってしまうわけです。逆にうまい子の親が熱心にならなければ批判されることにもなる。ベンチウォーマーの親が熱心だと変な目で見られたりもする。そのあたりは社会心理学ですよね。こうせざるをえないという力が働いてしまうわけで。いやだなと思ってもなかなか言えなかったりする。

――心理学的な発想で,いろいろ切り込めることはあるなと感じました。人間の集団としての力が働くので,問題理解や解決策に関しても心理学にできることがたくさんあるように思いました。この本からそうした動きが出てくるとよいなのですが。

尾見:

そういうふうにいけるかな。そんなに甘くない気もしますが,考えるだけの余裕がある人であれば「こういう視点があったのか」と思ってくれて,世界観が変わるようなことがあればよいなと思います。

内田:

おっしゃるとおり,部活は教育学の課題だと認識されているけれども,心理学の課題だと言われてもピンと来ないかもしれません。それこそ体罰の問題にしても,本の中に「勝ったら自分のおかげだけれど,負けたら環境のせい」と思ってしまうという話が出てきましたが,いかにも心理学の切り口だなと思いました。僕には思いつかない。他にも切り口はたくさんあるのではないかなと思いました。学問の垣根を越えて,やっていけるとよいなと思いました。

(終わり)

2年半の在米研究を経て帰国した心理学者が,日本の部活(BUKATSU)に感じた違和感とは? 勝利至上主義,気持ち主義,一途主義,減点主義という4つの主義から,日本の部活を取り巻く文化的側面と,関係する人々の心理・行動を読み解く。日本の部活への文化心理学的観点からのアプローチ。