あなたは障害者をどう思いますか?――身近な問題としての偏見や差別(2)

社会に,障害者への偏見や差別はあると思いますか? あなたは障害者のことをどう思いますか? 三重大学の栗田季佳講師が身近な問題としての偏見や差別の問題を考えます。第2回は時として生じてしまう,人間を人間扱いしなくなる心のプロセスを取り上げます。(編集部)

連載第1回はこちら

Author_KuritaTokika栗田季佳(くりた・ときか):三重大学教育学部講師。主要著作・論文に,『見えない偏見の科学――心に潜む障害者への偏見を可視化する』(京都大学出版会,2015年),『対立を乗り越える心と実践』(大学出版部協会,近刊),「『障がい者』表記が身体障害者に対する態度に及ぼす効果――接触経験との関連から」(『教育心理学研究』58(2), 129-139,2010年,共著) 。→Webサイト

連載の第1回では,障害者は言葉の上でも,住む場所,教育,働く場所,人間関係などあらゆる面でも分離の岐路に立たされ,多くの人にとっての「当たり前」とは異なる人生を送り,社会から見えない存在となっていることを述べた。

ある施設では,利用者は,決められた時間に起き,決められた時間に決められた食事をとる。お風呂は2日に1回しか入れない。外出には許可が必要で,場所を伝えなければいけない。友人に電話しようと思っても,事務室の隣で人の気配がする。部屋に持ち込める物には制限がある。テレビは共有スペースに1台しかなく,好きな番組は見られない。消灯時間も決まっているため,夜更かしもできない。ゆっくり趣味の時間をとることはできないし,旅行も好きなようには行けない。恋人や友人をもつ機会も制限され,性生活も望めない。

多数の利用者を抱える病院や施設では,行動を制限する規定をつくらざるをえないのだが,このような環境を人間らしい生活といえるだろうか? このような自由が制限された生活を,あなたは望むだろうか? 多くの人は望まないだろう。しかし,その利用者が精神障害者や重度の知的障害者,肢体不自由者になると,納得されやすい。この区別は「差別」どころか,配慮や本人にとっても望ましいと見なされることもある。

なぜ同じ人であるのに,健常者と障害者は異なる条件が認められるのだろうか? 今回は,同じ人間であるはずの存在を,人間扱いしなくなる心のプロセスを見ていきたい(1)

人間とは何か?

障害者を人としてとらえているかを調べる目的で「あなたは障害者を人として扱っていますか」と聞かれても,どういう状態のことを「人として扱っている」といえるのかわからないだろう。「あなたは障害者を人間以下だと思いますか」と問われて,もし本当にそう思っていたとしても「はい」とはなかなか答えられないだろう。かといって,障害者と接してもらい,非人間的な行為をするかどうかを観察することなど論外だろう。どうしたらこのような見えない差別意識を取り出すことができるだろうか?

この問題をとらえるには,人が何をもって人ととらえているのかを見出す必要がある。ここで取り上げるのは,人間が人間のことを「人間」と認知する要素であって,人間の条件や人間の本質に関する哲学的な問いではない(これらの問いは奥深く魅力的だが)。どういうことかというと,例えば,私たちは人に対して,人間であることは自明のはずなのに「人間味に溢れている」とか「人間力のある人だ」など人に人を見出す言い方をする。反対に,「人の皮を被った悪魔」「人としてあるまじき行為」と人を人と見なさない言い方もする。それは,私たちが身体的な人間とはまた別に,心理的な人間の基準をもっていることを表している。


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